思想遊戯(5)- 桜の章(Ⅴ) 散る桜
- 2016/5/10
- 小説, 思想
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第五項
智樹「一葉さん。こんにちは。」
一葉「こんにちは。」
僕は、一葉さんに確認してみることにした。
智樹「こないだの出来事についてなんですが・・・。」
一葉「なんでしょうか?」
彼女はベンチに腰掛け、僕は立ったまま彼女に尋ねる。僕は、鞄から石を取り出す。
智樹「この石が虚無であるという、その言葉が意味するところについてです。」
彼女は、僕を見上げた。
一葉「興味深いですね。」
智樹「ええと、それで、一葉さんがこの石を虚無と言ったことには、意味があると思うんですが・・・。」
一葉「はい。それで、智樹くんは、どういう意味を見出したのでしょうか?」
僕は一呼吸置いて、自分を落ち着かせてから、言った。
智樹「石は英語でいうとstone(ストーン)です。日本語では石の同音異義語に、英語でいうとwill(ウィル)の意志があります。stone(ストーン)とwill(ウィル)は、英語で言えば音も意味も違う二つの言葉ですが、日本語だと意味は異なりますが、音で言えば同じになります。そのため、stone(ストーン)の石とwill(ウィル)の意志で、言葉遊びが可能になります。」
彼女は僕をじっと見詰める。
一葉「面白い着眼点ですね。」
その彼女の回答に、僕は少し不安になる。でも、ここまで来たら、僕が持ってきた説を言うしかない。
智樹「この石が虚無だということ。この言葉が意味するところは、will(ウィル)の意志が虚無であることではないでしょうか?」
僕は、彼女の回答を待った。彼女は、しばらく黙ってから口を開いた。
一葉「そうだとすると、その続きはどうなるのでしょうか?」
僕はうなずいて語る。
智樹「意志が虚無であるということが示されたとき、何故、それを指摘されたのかという問題が残ります。」
彼女はうなずく。
一葉「そうですね。」
智樹「僕には、二つの可能性しか思い浮かびませんでした。一つ目は、僕の意志が虚無であるということ。つまり、僕がニーチェを読んで、ニヒリズムに囚われることに対して警告してくれているという可能性です。二つ目は、意志はそもそも虚無であるということです。これは、ニーチェの哲学の核心でもあると思うのですが、一葉さんが、そのことを僕に提示してくれたという可能性です。」
彼女は、静かに微笑んだ。
一葉「智樹くんは、どちらの可能性だと思いますか?」
僕は正直に答えた。
智樹「分かりません。どちらの可能性だとしても、筋は通ると思うんです。だから、正直分かりません。正解を教えてください。」
僕は彼女の回答を待つ。彼女は、いたずらっ子のように静かに微笑む。
一葉「一つ目の解釈については、ニーチェの『善悪の彼岸』146節にある言葉が適切ですね。」
そう言って、彼女はその一節を奏でる。
怪物と戦う者は、そのために自分も怪物とならぬように注意せよ。
汝が深淵を長く覗き込むとき、深淵もまた汝を覗き込む。
僕は、まだその『善悪の彼岸』という本は読んでいない。
一葉「解釈の仕方はいろいろあると思いますが、怪物と戦う者は、そのために自分も怪物になってしまうから気をつけろという意味です。このことは、ニーチェの哲学そのものについても言えてしまうと思うのです。」
怪物と戦う者は怪物になり、ニーチェと戦う者はニーチェになってしまうということだろうか?
智樹「ニーチェに近づく者は、ニヒリズムに墜ち込まないように注意しろってことですか?」
彼女は、微妙な表情を魅せる。
一葉「そこは、それぞれの感じ方の違いが出てしまうところだと思います。」
智樹「そうですか・・・。」
僕は、三宮先生が言っていたことを思い出していた。確か、ニーチェは、Aphorism(アフォリズム)、日本語で言えば格言を多用しているため、意味を厳密に確定することが難しいらしい。
彼女は、手帳をペラペラとめくる。
一葉「二つ目については、『権力への意志』という本で、ニヒリズムが〈至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ〉、と説明されている箇所が参考になります。意志はそもそも虚無であるというなら、意志はそもそも最高の価値が無い状態であるということになります。ニーチェは、〈ニヒリズムは一つの正常な状態である〉とも述べています。これは、非常に興味深い洞察だと私は思います。」
彼女は、手帳を見ながら言葉を並べる。
智樹「それじゃあ・・・。」
僕は、身を乗り出した。正解は、もしかして・・・。
一葉「ですが、一つ目も二つ目も、どちらも不正解です。」
彼女は、手帳から目を離し、僕の方を向いてはっきりと告げる。
智樹「えっ。」
僕は、間抜けな声を出す。
一葉「宿題・・・というと、何か嫌な感じがしますね。では、私からの謎かけということにしておきましょう。」
彼女はおもしろそうに薄く微笑んだ・・・、ような気がした。
智樹「教えてくれないのですか?」
一葉「智樹くんは、世阿弥を知っていますか?」
智樹「ゼアミ? いや、知らないです。」
一葉「世阿弥は室町時代の芸術家です。世阿弥の『風姿花伝』という本には、〈秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘すれば花なるべからず、となり。この分け目を知る事、肝要の花なり〉という言葉があります。」
ゼアミって、人の名前なのか・・・。手帳を見なかったから、この言葉は暗記しているんだろう・・・。好きな言葉なのかな?
智樹「どういう意味でしょうか?」
一葉「花は秘密にすべきだということを世阿弥は述べています。秘密にしているからこそ花なのであって、秘密にしなかったら花ではないということが示唆されているわけです。この、花となる、花とならないの境目の理由こそが、花の秘訣だということです。」
智樹「つまり、秘密ってことですね。」
彼女は僕に静かに微笑む。
一葉「その通りです。」
智樹「一葉さんの謎かけは、秘密になっている今は、まさしく花なのですね?」
一葉「そういうことになりますね。」
僕は彼女の瞳をじっと見詰めた。
智樹「なら、僕がこの謎を解いたら、この花は散ってしまうのですか?」
彼女は僕をのぞき込む。
一葉「それは、素敵なたとえですね。散らない花は、ないのかもしれません。」
智樹「散らない花はない・・・。よい言葉ですね。」
彼女は、ふっと遠くを見ているかのような眼差しになる。
一葉「松尾芭蕉の『野ざらし紀行』には、〈命二つの中に生たる桜哉〉という句があります。二人の間で、同じ時間を生きた桜が、美事に花を咲かせていることを詠った句です。私たちの間にも、今、花が咲いていますね。」
その言葉に、僕は嬉しくなってしまう。
智樹「そうですね。」
一葉「芭蕉の『笈日記』という作品には、〈さまざまの事おもひ出す桜哉〉という句があります。昔のままの桜を見ると、さまざまなことが思い出されるという句です。もし、智樹くんが私の謎かけを解いたなら、桜を見たときに思い出すことが一つ増えてしまいます。」
そう言って、彼女は静かに、嬉しそうに微笑むのだ。
僕は、彼女の謎かけに、いつかは答えられるのだろうか? それは分からないけれど、今の僕は、とても素敵な約束を交わしたのだと思うのだ。
彼女は立ち上がり、桜の花びらが舞っている場所へと身を躍らす。僕は、ゆっくりと彼女の後を追う。彼女は、ゆっくりと魔法の言葉を使う。
敷島の 大和心を 人とはば
朝日に匂ふ 山桜花
僕は魔法にかけられた。
一葉「この歌は、江戸時代の国学者である本居宣長の言葉です。ここに咲いているのはソメイヨシノであり、山桜ではないのが、ちょっと残念ですが…。」
そう言って微笑む彼女に、僕も微笑み返す。ああ、僕は彼女の思考に恐怖し、そしてどうしようもなく惹かれてしまうのだ。僕は、僕の心の内に奇妙な昂揚感があふれてくるのを感じていた。
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