【特別寄稿 西部邁 】言葉は過去からやってくる

西部邁 特別寄稿

 「未来への挑戦だ」、「変革の断行だ」と叫び立てる者が跡を絶たない。それどころか、それを日常の挨拶のようにして遣う人間がその数を増しております。その背景には「人間礼賛」と「進歩軽信」という、理念における二つのモダン(近代)なモデル(模型)のモード(流行)があります。ちなみにモダンとモデルとモードとは、語源にあっては同根です。つまり近代とは「最近の時代」などというカレンダー上のことではなく、「模型が流行する時代」ということを指します。しかもそこに「デモクラティズム(民主主義)」が加わります。そのせいで「デマ(嘘話)に誑かされる単純な人々」としてマス(「大衆をたっぷり混じえたデマゴギー(民衆扇動)」つまり「大量現象に便乗する大量人」)がその模型や流行の担い手となります。要するに、「単純模型の大量流行」によって染め上げられるのが近代だということになるのです。
 そんな時代で「未来の変化」が喧導されても、正常な精神の持ち主なら、その変化から
(改善ではなく)改悪がもたらされるだろう。と考えざるをえません。そこに改善のみを期待するのはドグマ(独断)なのです。ドグマの語源的意味に則ってあらゆる変化が「良いことのようにみえる」といった調子で変化の波に乗っていく愚か者、そんな連中だけが「チェンジ・ナウ」だの「構造改革」だのに血道を挙げるのです。
 そんな世論が四半世紀に及んで荒れ狂うとなると怒る気も悲しむ気もなくなります。それで私は、「人間は言葉の動物なんだから、自分のはいている言葉のエティモロジー(語源)を少しは調べた上で言葉を吐け」と皮肉を飛ばして、少しでも溜飲を下げることにしています。エティモス(真実)のロゴス(言葉)を探すのでなければ、言葉なんか単なる空気の振動に終わるに違いありません。
 近現代人は過去を顧みずに未来を覗こうと躍起です。しかし、人間を人間たらしめている言葉は未来からやってくることはありません。過去から伝え残された言葉に、ほんの少し加工を施して自分の表現としている、それが人間の言語活動というものです。そうとわかれば、言葉のヒストリー(歴史)をストーリー(物語)として紡ぐ構えを持っている者だけに、思想を語る資格が与えられる、ということになるのではないでしょうか。
 たとえば、昭和の初期もそうだったようですが、平成に入ってから「維新」という言葉が頻用されています。そしてその言葉に当てがわれている意味はというと、明治の初期もそうであったように、「御一新」ということなのです。しかし「維新」に対応させられている英語はリストレーションで、それは「復古」ということを意味します。それもそのはず、「維新」は孔子の「周は旧邦なれどもその命は“これまた(維)”新たなり」という科白から採られました。「これまた」とは「昔のものが今に」ということですから「復古」でよいのです。温故知新という表現を知っている者なら、「ガラガラポン」が維新の本質などと宣うのは、「死んでも治らない莫迦」の見本とすぐ見抜くにちがいありません。
 「革命」という言葉も然りです。「天命」という不易の価値基準を守るために王朝の「変革」を行う。それが“革命”という言葉の語源的意味です。それに対応する英語のリヴォルーションも同様でして、古きよき価値をリ(再び)ヴォリュート(巡り来たらせる)のがリヴォリューションということになります。そんなことも知ることなしに旧体制に対する急進的な大刷新、それが革命と近代人は誤解したのです。
 「知ること」といえば、これを書いているさなか、都知事選の候補者が次々と名乗りを上げています。私は、随分前から、民主主義の時代に政治家になりたがる者には変態者が多いくらいに考えておりますので、都知事選にさして関心がありません。ここで指摘したいのは、都道府県の長が「知事」と呼ばれるのはなぜなのか、この知事選候補者たちは(たぶん)知ることがないだろうという点です。
 「知事」とは、六、七世紀の日本でも、国を天皇が治めることを「知ろしめす」ということからもわかるように、政治を行うことです。そして、なぜ政治が「知る事」なのかというと「天命を知り、それを民人に知らせること」が政治だからとなります。天命とは、今で言えば「揺るがせに出来ぬ真実(に近い価値や規範)」といったようなことです。一体全体、これら候補者たちはそんな凄いものを知るための努力をどこでどれくらい払ったというのでしょう。そんな努力はおおよそゼロだ。と候補者の顔相からしてすぐわかるのです。私のいいたいのは、知事のことについて喋々するのなら、知事の由来についてせめて一分間くらいは思いを巡らせたらどうか、ということに過ぎません。
 思いを巡らせずに吐き散らかされた臆説の集まり、それが、パブリックオピニオンだと言っていいでしょう。それもそのはず、オピニオンとは「根拠の定かならぬ意見」のことなのです。漢書で「世(せ)論」といってみても、それは「世にはびこる論」のことで、昔の「輿論」とは異なります。輿論というのは、「社会の台(輿)にいる庶民が心中に抱く常識」のことです。そんな土台も庶民も常識もなくなったのが現代社会です。だから、言葉の土台も失われて、人々は目前に流れる言葉に束の間だけ唱和し、それが流れ去れば、自分の意見が何であったかさえ忘れてしまうという顛末です。つまり、言葉の歴史の流れをその源流にまで逆上らせぬ者の言葉は、たとえ多弁と聞こえようとも、その意味内容においては失語なのです。言語的動物に過ぎぬ人間が、おのれの存在の根拠である言葉を軽んじ壊し忘れていくというのは、無残としか形容の為し様がありません。だからこの私、多弁を弄したことを謝った上で、この世にそろそろオサラバしようと心に決めました。

西部邁

西部邁

西部邁

投稿者プロフィール

39年北海道生まれ。東京大学経済学部卒業。東京大学教養学部教授を経て評論家に。94年から05年3月まで「発言者」の主幹を務める。現在「表現者」顧問。著書に『経済倫理学序説』(吉野作造賞)『生まじめな戯れ』(サントリー学芸賞)『大衆への反逆』『福澤諭吉』『友情』『妻と僕』『サンチョ・キホーテの旅』(芸術選奨)『昔、言葉は思想であった』『西部邁の経済思想入門』『金銭の咄噺』『どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由』『実存と保守』『保守の辞典』など。共著に『保守誕生』『難局の思想』『危機の思想』『「文明」の宿命』など。近著に『中江兆民』(時事通信社)近共著に『もはや、これまで』(PHP研究所)。

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コメント

    • 編集部より
    • 2014年 1月 31日

    今回あえて読みやすさ向上のための太字や下線、小見出しなどの手は加えておりません。西部邁先生の文章を真正面から味わっていただくためです。どうぞごゆるりとご覧ください。また、この記事で西部先生をお知りになられた方は、東京MXテレビ「西部邁ゼミナール http://www.mxtv.co.jp/nishibe/ (過去の放送分もご覧いただけます)」西部先生顧問の雑誌「表現者」もご覧いただくとなお一層よろしいかと考えております。是非どうぞ。

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