ポーランド現代史の闇

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※この記事は月刊WiLL 2015年6月号に掲載されています。他の記事も読むにはコチラ

女性が怯えたある質問

 いまから三十年以上も前のことである。一九八〇年代のはじめ、世界はまだ冷戦の時代だった。しかし、一九七〇年代末にポーランドに自主管理労組「連帯」が誕生し、ポーランドでは民主化を求める動きが活発化していた。いまから思えば、それはやがて起こるベルリンの壁の崩壊とそれに続くソ連崩壊の予兆であった。
 そうしたポーランドの民主化要求運動が高まり、ポーランドが日本でも世界でも関心を集めていた頃のことである。
 当時、私は大学生だった。私は、ポーランドで進行していた「連帯」による民主化運動に共感し、その動きを見守っている一人だった。その私がある時、あるポーランド人女性と話をしていた私は、異様な出来事に出会った。
 それは、都内の喫茶店でのことだった。戦後生まれのそのポーランド人の女性と私は、英語で話をしていた。とりとめのない会話をしていたその時、私は彼女にある質問をした。
 だが、それは特別深い意味を持って訊いた質問ではない。当時、ポーランドにはまだ行ったことがなかった私が、ポーランドについて何気なく訊いた質問のひとつに過ぎなかった。
 私は彼女にこう訊いたのである。
「ポーランドにドイツ人はいるの?」
 その時、異常なことが起きたのである。
 私がこの質問──「ポーランドにドイツ人はいるの?」──をした直後、彼女は何も言わなくなった。彼女は私の顔をじっと見つめた。そして明るかった彼女の表情はこわばり、何かに怯えたように一変したのであった。そればかりか、彼女はガクガクと両手を震わせ始めたのである。
 私は驚いた。自分の目の前で、何かに怯えて体を震わせる彼女を前にどうしたら良いのか分からず、ただ彼女を見つめ続けた。およそ一分後、彼女の震えは止まった。そして、ゆっくりと明るい表情を取り戻すと、彼女はまた何かを話し始めたのである。
 それは私が尋ねた事柄──ポーランドにドイツ人はいるの?──とは全く関係のない、とりとめのない話題だった。
 私は、彼女の様子が普通に戻ったので安堵した。そして何が起こったのかは分からぬまま、まるで何事もなかったかのように私たちは会話を続けた。そして、やがてその場をあとにして別れたのだった。
 この出来事があった日から、長い年月が流れた。当時、二十代の大学生だった私はあと数年で六十歳になる。しかしその私は、五十八年余のこれまでの私の人生において、あの時の彼女以上に人間が怯えているのを見たことはない。

あるユダヤ人の告発

 一九九〇年代半ばのことである。私はある本に出会った。『AN EYE FOR AN EYE』(目には目を)という本である(初版一九九三年。本邦未訳)。著者はジョン・サック(John Sack:1930–2004)というユダヤ系アメリカ人のジャーナリスト。
 この本のなかで氏が述べているところによれば、氏は幼少の頃、ユダヤ教の学校に通い、ユダヤ教について学んだという。そして、あとで紹介するこの本の一節を読むと、サック氏は敬虔なユダヤ教徒であったと思われる。
 サック氏が書いたこの本(以下、『目には目を』と記す)の内容は衝撃的である。それは第二次世界大戦終結後、ポーランドに残留したドイツ民間人の運命についての報告である。
 一九四五年五月、ヨーロッパで第二次世界大戦が終結したあと、ソ連に占領された当時のポーランドと、戦後ポーランドに併合・吸収されたドイツ東部には多くのドイツ人が残留していた。
 そしてそれらのドイツ人たちが、ソ連支配下の戦後ポーランドでいかなる運命を辿ったかを詳細に語ったのが、この本の内容なのである。

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西部邁

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