『夢幻典』[漆式] 心身論
- 2017/1/6
- 思想, 歴史
- feature7, yume
- 2,438 comments
![](http://asread.info/wp-content/uploads/2016/11/09-630x320.jpg)
自己は心身とは異なる。
心身は、自己ではない。
心身は、五蘊として示される。
それは、色・受・想・行・識の五つである。
色蘊とは、身体および物質のことである。
受蘊とは、感受作用のことである。
想蘊とは、想像作用のことである。
行蘊とは、意志作用のことである。
識蘊とは、認識作用のことである。
唯識。
外界は表象として在る。
心は表象を生み出す。
三界唯心。
世界はすべて心が生み出したと考えることができる。
それゆえに、表象は実在として措定される。
ここで八識が示される。
すなわち、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識である。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識は感覚であり、それぞれ固有に働く。
意識は、言葉を用いた思考として働く。
末那識は、深層において働く。
阿頼耶識は、万有を生み出す諸法として働く。
世界を認識する。
心は世界を総体的に把握し、心の所で分析的に把握する。
認識において心的作用の二つの区別が成り立つ。
客観としての所取、すなわち認識されるもの。
主観としての能取、すなわち認識するもの。
その狭間において、思考が成り立つだろう。
そこにおいて、いくつかの思考形態が成り立つだろう。
その所取と能取の一致により、世界は唯心であり、心は唯世界となる。
ここに自証という三つ目の心的要素が導かれる。
所取と能取から成る認識を確認することで、
自らが自らを証するからである。
それがなければ、世界に認識を確認する者は居ないのだから。
さらに、自証の働きをさらに証する働きが必要となる。
すなわち、証自である。
なぜなら、世界には多くの自己が存在しているのだから。
そして、その多くの自己の中で、どれが本物かという問いが成り立つから。
しかし、それはもはや言葉では語れない。
言葉では語れないことを、あえて言葉で語る営みがここにある。
自己と心の問題がここにあり、自己の心という言い方が為され得るのだろう。
だから、心は世界を貫いている。
貫いていく。
そこから、ある種の悟りが導かれるであろう。
悟り。
我は世界なり。そこに、汝は居ない。
世界に居る我。そこで、我と汝は同じ。
我は世界なり。そこに、我は居ない。
我は世界なり。そこに、我は居るが汝は居ない。
我は世界なり。そこには、我も汝も居ない。
我は世界なり。そこには、我は居ないが汝は居る。
我は世界なり。そこには、我も汝も居る。
だから、それぞれが、悟りと呼ばれるにふさわしいであろう。
それは、いくつもの思考法。
思考法の複数性。
複数の思考の展開。
思考法において、処理単位の分化。
分化した処理単位の制御。
自我を分化した単位の制御。
超自我による制御。
我も汝も居る世界。
ここに、慈悲が生まれる。
慈悲とは、慈と悲とから成る。
慈では、同胞への利益と安楽をもたらすことを望む。
悲では、同胞から不利益と苦を除去することを望む。
加えることと、減らすこと。
加えるべきものを加えること。
減らすべきものを減らすこと。
ここに慈悲が示された。
1
2コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。