『夢幻典』[玖式] 蛍光論
- 2017/1/19
- 思想, 歴史
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誰かが言った。
一を僭称する神がいないのならば、すべてが許されていると。
そのとき、意味が問われている。
許すとか、許さないとか、そういった意味の次元が問われているに過ぎない。
だから、一を僭称する神の不在は、その答えには成り得ない。
その答えが、本当に答えに成り得るのは、影響下にある者たちだけであるから。
一を僭称する神の影響下にある者たちだけであるから。
すべては、為されうる。
より正確に言うなら、成されうるすべては、為されうる。
だから、そこに意味が問われる。
許すとか、許さないといった意味も、そこで働くのだ。
だから、求められるところが、そのところが問われる。
本物は凡人を離れたところに求められ、後に凡人の内に求められる。
浄土は穢土をはなれたところに求められ、後に穢土の内に求められる。
時間において、ただ今の刹那に、歴史を超えた永遠が求められる。
理想論が現実をむしばみつくす。
そのとき、その論理の頂点は堕落と崩壊を招くことになるだろう。
だからこそ、ここでの生活が問われることになる。
何かを絶対的に主張する。
しかし、それを相対的に主張することができてしまうだろう。
だから、絶対と相対は絡み合う。
その絡み合いの仕方で、いくつもの思考様式が考えられるであろう。
それらについて、互いの様式間の関係図を想定することができるであろう。
その関係性の強度を図ることが、できるかもしれない。
少なくとも、図ることができるという仮説を立ててみることはできるであろう。
運命論において、必然と偶然が絡み合う。
必然性そのものにおける偶然。
偶然性そのものにおける必然。
意志の設定が拒絶される。
意志の仮定が要請される。
意志が想定される。
自己は心身とは異なる。
それゆえ、自己と心身とは友である。
身体は自己の友であり、心も自己の友である。
それゆえ、身体は自己の敵であり、心も自己の敵である。
その関係性において、自己は心身とつながる。
つながることで、自己に打ち克つ。
打ち克つという営為が可能となる。
そして、もっとも素晴らしいものが、ここで見出される。
なぜなら、それはそうでしかないのだから。
そうでしかないものにおいて、そうではないことがありえるのだから。
幻想を視る。
あらゆるすべては幻想に還元されるがゆえに。
それゆえに、幻想を視るのだ。
数多の飛躍が為されている。
それゆえ、飛躍による論理が成されている。
それがなければ、何もできないのだから。
言葉を交わすことすら、できないのだから。
言葉によって、我は汝と向き合う。
汝のために、何ができるのだろう。
そこでは、何が起きているのだろう。
ここで、何ができるだろう。
梵我一如の有と無の思想が展開された。
我と世界の関係が示された。
我は世界であり、我は世界の外に有り、我は世界の内に居る。
それゆえ、その構造のゆえに、我は無いのだ。
我が無いことによって、我は有るのだ。
その上で、この世界において問いが問われる。
無の意味が変わる。
無の意味のすり替えが巧妙に行われる。
それによって、言葉が成り立ち、言葉が語られる。
その構造のゆえに、このすり替えが見過ごされる
見過ごされざるを得ない。
なぜなら、その糾弾行為そのものが、
言葉によって為されざるを得ないのだから。
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