『日本式自由論』第三章 室町時代・安土桃山時代


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第三章 室町時代・安土桃山時代

本章では、室町時代と安土桃山時代における自由を見ていきます。

第一節 中世仏教

中世仏教においても自由の言葉を見ることができます。
一休宗純(1394~1481)の『狂雲集』には、〈奪人奪境 事なほ稠し、幽谷閑林も自由ならず〉とあります。盗人や越境者がびっしり集まり、どこもかしこも自分の思うままに動けないと語られています。
蓮如(1415~1499)は室町中期の浄土真宗の僧です。『蓮如文集』には、〈一念をもてば往生治定の時剋とさだめて、そのときのいのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理なり〉とあり、「自然」が語られています。南無阿弥陀仏の一念を起こすことをもって往生決定の時点と定めて、その時以後に命がながらえれば、おのずと念仏を積み重ねるので、多念の称名になるという理屈です。

第二節 戦国時代

戦国武将の著作の中にも、自由の用法を見ることができます。
大内家歴代が発布した『大内家壁書』には、1439年~1529年に出された法令がまとめられており、〈若し猶自由の族あらば、殊に御成敗あるべきの旨〉や〈或いは自由の進退を邪意(我意)に任せ〉とあります。ここでの自由は、法の違反や秩序の混乱を指し、否定的意味を持ちます。
結城政勝(1503~1559)の法度『結城氏新法度』には、〈銭撰り候てよく存候哉。万事是者不自由にて候〉とあります。ここでの不自由は、不便・不都合とほぼ同じ意味です。
武田信玄(1521~1573)が制定した分国法『信玄家法(甲州法度之次第)』には、〈私に没収せしむるの条甚だ自由の至りなり〉や〈意趣なくして寄親を嫌ふ事、自由の至りなり〉とあります。私(わたくし)という自らに由るという自由であり、否定的な意味です。
今川氏の家法『今川仮名目録』には、〈自今以後、自由之輩は罪過に処すべし〉という表現があります。自由之輩とは、我儘勝手をする者のことです。先例・法令などによってつくられた秩序を乱す行為が、「自由」と表現され非難の対象となっています。また、〈寺を他人に譲与の一筆を出す事、甚だ以て自由の至り曲事なり〉ともあります。この自由も我儘勝手です。
本多正信(1538~1616)の著作であると言われている『治國家根元』では、〈智恵ノ自由〉として精神的な自由が、〈是ヲ救ヒ玉フニ自由ナリ〉として能力があるという意味の自由が用いられています。また、〈自由ヲフルマフモノナリ〉ともあり、こちらは勝手氣儘の否定的自由です。
別所長治(1558~1580) について記された『別所長治記』には、〈一旦ノ合戦勝負難決(けっしがたし)、然(され)バ駆引為自由、〉や〈川ヲ渡ス方ハ引方不自由ナルニヨツテ諸卒強キ物ト聞〉とあります。ここでの自由・不自由は、可能・不可能、容易・困難の意味で用いられています。環境に対応するための自由であり、複雑な状況に対応するための高度な用法と見なすことができます。
伊達政宗(1567~1636)の老臣伊達成実(1568~1646)の筆録である『伊達日記』には、〈自由ニ通路を任候〉、〈通路不自由ニ成候〉、〈早通路不自由ニ成候間〉、〈通路自由候故〉などの用法があります。この自由と不自由は、通行可能・不可能という意味に限定されています。この自由は、任意の環境に対応するための自由です。
黒田長政(1568~1623)の遺言『黒田長政遺言』には、〈自由ヲ働キ、掟ヲ守ラズ〉とあります。この「自由」は、勝手気侭の意味であり、掟に反するものです。
甲州武田武士の事績や心構えや武将の条件などが記されている『甲陽軍鑑』には、〈国中の地頭人、子細を申さずして、恣に罪科の跡と称し、私に没収せしむるの条、甚だ自由の至なり〉とあります。領国内の地頭が、事情を明らかにしないまま、好き勝手に罪科の跡と称し、私意を以て所領や財物を没収することは勝手もはなはだしい、ということです。

第三節 桃山文化

桃山文化における自由の用例として、千利休の茶の湯論を伝える茶書『南方録』があります。
[墨引]には、〈ねんごろに根源をきはめぬれば、いかやうにも自由なることと云々。たとへば、真の文字を知て、行草に至れば、いかほど自由にくづしやつしても本性たがはず〉とあります。根源を極めた心の状態が、自由として肯定的に語られています。
他にも、〈向炉にては、道具の座せばく不自由なれども、元来向炉は丸畳にて、居座はくつろぎあり〉とあり、不自由がある状況における困難の意味で用いられています。また、〈されども大名高家の自由なるには、南面、北面、別々の諸具用ひたるることなれば、取捨に及ばず〉とあります。共同体における自由が、諸々の条件によって肯定され許容されることが示されています。
[滅後]には、〈めたと雨さへふれば、小雨にも自由して玄関へ手水出すにては更になし〉や、〈囲の類にて、諸事不自由なり〉や、〈また台目だゝみ広く自由なるゆへ種々の置合も出来、さまざまの道具をも取出し、無益のことになりぬ〉などがあります。いずれも、特定の環境に対応するための自由が語られています。


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西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
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