ナショナリズム論(1) 国境や国籍にこだわる時代は終わったのか?

木下元文 ナショナリズム論1

国境や国籍にこだわらないの?

平成25年9月25日、ニューヨーク証券取引所で安倍内閣総理大臣がスピーチを行いました。

http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0925nyspeech.html

 ここニューヨークでは、イチロー選手が日米4000本安打という偉大な記録をつくりました。日本で海外の選手が活躍し、米国で日本の選手が活躍する。もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました。
 世界の成長センターであるアジア・太平洋。その中にあって、日本とアメリカは、自由、基本的人権、法の支配といった価値観を共有し、共に経済発展してきました。その両国が、TPPをつくるのは、歴史の必然です。

 この発言は、特に保守派と呼ばれる方々から批判されました。グローバリストの考え方であって、ナショナリストの考え方ではないように思えるからです。
 ここで注目すべきは国境や国籍の役割、つまりは国家(ネーション・ステート)やナショナリズムの問題です。それらの問題について、思想的に理論武装をしておく必要があると思うのです。そうしておかないと、単にグローバル派とナショナル派では好みが違うといった矮小な話になってしまうからです。

ナショナリズムを論じるときの注意点

ナショナリズムを論ずるというのは、非常にめんどうくさい問題です。用語の定義が混乱しているということもありますが、国家(ネーション・ステート)やナショナリズムを近代と結びつけて単純化し、人類史における過渡的な現象としてとらえる傾向があるからです。
岩波哲学・思想事典』の「ナショナリズム([英]nationalism)」の項目には、〈今日われわれが慣れ親しんでいるナショナリズムという言葉は、その担い手たちの想念とは裏腹にきわめて新しい近代的な現象であると言える〉と記されています。具体的な記述としては、〈ナショナリズムは、産業化された経済的な社会(ゲゼルシャフト)を、政治的および文化的な共同体(ゲマインシャフト)と合致させようとする、矛盾した営みである〉と説明されています。しかし、このような営みは程度の差はあれ、近代に限ったことではないようにも思えるのです。
 例えば、『キケロー選集〈8〉』に掲載されている『国家について』では、次のように解説されています。

 スキーピオー(キケロー)によれば、国家(res publica)とは国民の物(res populi)である(一巻三九節)。国民とはなんらかの方法で集められた人間のあらゆる集合ではなく、法についての合意と利益の共有によって結合された民衆の集合である(coetus multitudinis iuris consensus et utilitatis communione soiatus)。

 キケロ(Marcus Tullius Cicero, BC106~BC43)は紀元前の人物ですが、国家におけるナショナリズムの基本的なアイディアをすでに提示しています。
 ナショナリズムを論じるときの陥穽は、どうやら国家(ネーション・ステート)やナショナリズムを近代と結びつける傾向の中にありそうなのです。

「ネーション・ステート=国家」説

ここで、保守思想家の西部邁(1939~ )が『保守の辞典保守の辞典-西部邁』で述べている意見を参照してみます。西部は、ネーション・ステートについて次のように述べています。

 ネーション・ステートの訳語は「国民とその政府」ということでなければならず、それを略していえば「国府」ということになる。しかし日本語において、古来から、国府は地方政府のこととされてきたので、中央政府のことを中心において「国民とその政府」を表現するには、府の同義語が家であるということに着目して、「国家」という日本語を宛うのが適当である。というより、日本では、実際に、「国民とその政府」を表すものとして国家という言葉がつかわれてきたのであった。

 つまり、「ネーション・ステート (Nation-state)」の訳語は「国民国家」ではなく、普通に「国家」だと言うことです。さらに、ネーション・ステートが近代的なものだという考え方に対しても疑義が呈されています。

 ネーション・ステートの考え方は(十七世紀前半、ヨーロッパ大陸の全域を巻き込んだドイツ三十年戦争にたいする国際講和会議の産物としての)ウェストファリア条約ではじめて頭をもたげた「近代的」な政治的観念にすぎない、という見解が流布されている。しかしこれは軽率な見方であろう。ここでは詳述する余裕はないが、「国家」の観念と行動は、人類六千年の文明史がほぼ必然の形で産み落とした国際社会の帰結なのである。

私もこの考え方に賛成したいと思います。この見解の上で、西洋のナショナリズム論を参照しながら、国家(ネーション・ステート)やナショナリズムについて考えていきます。

→ 次の記事を読む: ナショナリズム論(2) 対E・ルナン

西部邁

木下元文

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投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
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