「民主主義は最悪な政治といえる」という言葉の真意
- 2014/2/7
- 思想
- 西部邁
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「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」とはイギリスの元首相ウィンストン・チャーチルの言葉ですが、ほとんどの場合この言葉は、逆説的に「民主主義こそが最良である」という意味において捉えられることがほとんどでした。しかし、果たして本当に民主主義は最良の制度なのでしょうか。
民主主義は、理念としては、「知性に適用された平等主義」(『アメリカの民主政治』アレクシス・ド・トクヴィル)、実際の制度としては多数決を基本とします。有権者の多数派の支持によって代議士を決定し、代議士で構成された国会の多数派によって政治が動かされます。このような民主主義の制度が最善の決断を導く、あるいは一定程度健全に機能するためには、いうまでもなく、国民世論の多数派が健全な判断の力を有している場合に限られます。
「民主主義は、少数の政策決定者の間違った判断による暴走を食い止めるための制度なのだ」という意見もありますが、結局この意見も、多数派の暴走を止める機能に関しては全く言及がなされていません。
ニーチェは『善悪の彼岸』のなかでこのように述べています。
狂気は個人にあっては稀有なことである。しかし、集団・党派・民族・時代にあっては通例である。
また、評論家の西部邁さんは、デモクラシー言葉の訳語を民主主義とした点が問題であったと指摘しています。仮に、デモクラシーを民衆政治と訳せば、それは単に政治の制度の一つと理解され、一つの政治の制度には欠陥も誤謬も存在すると皆が暗に理解したでしょうが、民主主義という訳語を与えたことによって、一つの理念、つまり民衆の多数派の決断に正しさや正統性が付与されたのであろうと説明します。
さらに、多数派の決断に正統性を付与するような理念は、容易に少数派の排除や弾圧につながる危険性があります。
多数派の欲望が主権者の主張となることの結果は恐るべきものであって、たとえばそれが子供たちの世界における「いじめ」の温床ともなる。戦後民主主義つまり多数派の欲望が少数派の欲望を排除するという方式がストレートに応用されると、多数派とは違った性格なり態度なりを示す子供たちが、いじめによって排除されることになる。しかも多数者の欲望表現は「人間の権利」として賞賛されているので、排除されるものは、いわば人間に非ざる「黴菌」として無慈悲に扱われることになる。
(『国民の道徳』西部邁 P299)
中学校や高校で、いじめによる自殺事件などが発生すると、世の人々は、みな「いじめは悪いことだ!!」「いじめをなくそう!!」あるいは「いじめに負けない強い意思を持とう!!」などと言います。しかし、皆でよってたかって少数派のいじめられっ子をいじめあるいは無視し、いじめを見て見ぬふりをしているような状況に対し、一体「多数派の意見が正しい」という近代民主主義的な教育を徹底的に受けさせられた子供たちのどこから、多数派のいじめっ子や傍観者に抵抗しようという気力が沸いてくるでしょうか?自分が(たとえ、それが学校のクラスといった小集団であっても)多数派の連中からいじめられた時に、「多数派こそが正しい、多数派こそが正統性を持つのだ」と教えられ続けた子供は、ただただ無気力になり誰も見方のいない少数派になってしまった境遇を呪うだけでしょう。そして、ひとたび自分自身が少数派であることが恥だと感じるようになれば、身の回りの親や先生に助けを求めることにも多大な苦痛を伴います。
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