経済成長によって失われるものー「喜び」が失われる社会ー
- 2014/8/29
- 社会
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藤田省三氏の危惧
安倍政権が誕生して約20ヶ月が経とうとしている。アベノミクスは長期に渡った不況からの脱却を目標とし、民意もそれに期待しているというのが現状であろう。確かに経済成長は必要かもしれない。しかし、その経済成長によって失われるものはないだろうか。本稿ではリベラル派の思想家 藤田省三氏のエッセー『安楽への全体主義』をもとにしながら経済成長そのものの問題点について言及していく。
藤田氏によれば、経済が成長したことによって変化したものとして、我々の不快に対する姿勢があげられるという。経済が大きく発展する以前の人々は、不快なものと出会った時にそれを何とか避けようと思考し努力していた。一人一人が自ら考えるという姿勢は当たり前の態度であって、対処法を考えて試行することはその人の成長に繋がっていた。藤田氏はこの行動様式について
「そこには、個別具体的な状況における個別具体的な生き物の識別力と生活原則と智慧と行動とが具体的な個別性を持って寄り集まっている。すなわち、其処には、事態との相互的交渉を意味する経験が存在する」
と評価している。
一方、経済成長を遂げた社会では、人々は不快を自ら考えて回避するのではなく、不快を呼び起こす根源そのものを排除しようと行動する。不快なものと出会った際には対策を練るのではなく、そのものを破棄して、その不快がない状況やものを想像してしまうのである。例えば、自分の所持品に何か不具合や故障があった際、一昔前ならばその所持品の欠点を補う、または修理しようと人々は考えたはずである。しかし、現在の様にすぐに新しいものが手に入るようになると、その不具合を抱えた所持品を何とか活かそうと考えることは無くなってしまう。不十分なものをどうにか活かそうと考える姿勢はこうして失われる。以前の消費には自ら考える余地が存在していたが、現在の消費にはそうした余白が存在しないのである。
不快なものを全て除去する態度
藤田氏は消費の質が変わることによって失われるものを「喜び」と表現している。かつて行われていた消費には、そこへ至るまでに何かしらの苦労が介在していた。その苦労が、「喜び」に繋がったのである。しかし、苦難の末に行われる消費とは異なる、「喜び」を含まない消費は単なる「享受」なのだ。そうした享受は留まることを知らず、一つの享受が終われば次の享受を求めてしまう。その結果生まれる我々の生活態度が、藤田氏のエッセーの題名にもなっている「『安楽』への全体主義」なのである。藤田氏はエッセーの中で次の様に述べている。
「全ての不快の素を無差別に一掃して了おうとする現代社会は、このようにして『安楽への隷属』を生み、安楽喪失の不安を生み、分断された刹那的享受の無限連鎖を生み、そしてその結果『喜び』の感情の典型的な部分を喪わせた。そしてその『喜び』が物事成就に至る紆余曲折の克服から生まれる感情である限り、それの消滅は単にそれだけに停どまるものではない。克服の過程が否応なく含む一定の『忍耐』、様々な『工夫』、そして曲折を超えていく『持続』などの幾つもの徳が同時にまとめて喪われているのである。
(藤田省三(1985)p10 ℓ4)
不快なものを一掃しようとする態度は消費の範囲を超えて、コミュニケーションの範囲にまで広がっている。通信技術が発達したことによって我々は趣味趣向が近い友人と簡単に繋がることが出来るようになった。しかし、そこにはかつての近所づきあいや直接の人付き合いの中に存在していた「妥協」が生まれない。なぜなら、通信による特定の繋がりが自分の我慢ならないものになれば、別の繋がりを選んでしまえば良いからだ。いつでもやめることだって出来る。つまり、近所づきあいというある程度選択肢が無い、やめられないという不自由さが、我々の忍耐力や関係を改善する能力を育んでいた。このように、我々は選択肢があるということによって、何かを失っているのである。
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