「正しいこと」の伝え方ー言論は何のためにあるかー

「うんそうや」さんは「うんこや」さんじゃないよ

 のっけから尾籠な話で恐縮です。小学校1、2年のころと記憶します。教室でやんちゃ坊主どもが、何かの話のきっかけから「うんそうや、うんそうや」と叫んではしゃぎ始めました。彼らは「うんそうや」という言葉を「うんこや」と間違えて使っていたのです。 ここで、若い人たちのために少し注釈。

 いま日本のトイレ環境は世界でも評判になるほど衛生的で素晴らしいですが、私の子どものころ(60年ほど前)は、ほとんどの家庭が汲み取り式トイレ(ぼっとん便所)で、水洗トイレなどめったにありませんでした。月に一度くらい汲み取り屋さんが来てくれて汚物を柄杓で桶に汲み取り、いくばくかのお金を受け取って帰りました。この桶を「肥えたご」と言いました。

 汲み取り屋さんには地域によって専業の人もいればお百姓さんもいる。お百姓さんの場合、荷車に肥え担桶(たご)と売り物の野菜とを一緒に積んで牛に引かせてやってきました。「なんて不潔な!」とお思いでしょうが、当時はそれが当たり前でした。私の母の娘時代までさかのぼると、肥料をもらえるのでお百姓さんのほうで野菜を置いていったそうです。元祖リサイクルです。
 ちなみに、戦中『麦と兵隊』など兵隊三部作で評判をとった火野葦平の『糞尿譚』は、汲み取り屋さんに材を取り、芥川賞を受賞した傑作です。ぜひ読んでみてください。

 脱線しました。汲み取り屋さんは、子どもたちの間で「うんこや」と呼ばれていました。別にバカにする風はなく、私の兄などは、外で遊んでいた時に汲み取り屋さんが来ると、「おかあさ~ん、うんこやさ~ん!」と大声で取り次いだものです。

 私は少々利発な方だったので、「うんそうや」と「うんこや」の仕事がまったく違ったものであることを知っていました。それで、やんちゃ坊主どものはしゃぎが根拠のないものであることを説明したくてたまらなくなりました。

 「うんそうやっていうのは、ものを運ぶ人のことで……」と言い始めたのですが、いったん盛り上がったはしゃぎを制止することはまったくできませんでした。だれもまともに聞こうとせず、私のか細い「抗議」はあわれ喧騒にかき消されてしまったのです。私は非常に悔しい思いをしました。正しい(と信じた)ことが通らないと悔しくて仕方がなくなるのは大人も子どもも同じですね。

 そういう経験が積み重なった果てに、言論をものする仕事に就いたなどというと、いかにも取ってつけたように聞こえるかもしれません。でもこの種の経験をいまだによく覚えているということは、その経験といまのありようとの間にいくばくかの関連がある証拠だと自分では思っています。

意見の違う人との溝は、なかなか埋まらない。しかし言い続けることに大きな価値があると楽観しよう

 ところで、みなさんも、自分はこう思うのだが大勢がちがった意見なのでしぶしぶ従わざるを得なかったとか、薄々こう感じているがうまく言葉にできないうちに、声の大きいやつの言い分が正論として通ってしまった、といった経験をたくさんお持ちでしょう。それは多くの場合、そのままやり過ごしてしまっても大した実害がないのが普通ですが、なかにはそうはいかない場合もありますね。また実害はなくともいわれなき敗北を喫した悔しさはどうしようもなく残り、精神衛生上もよくありません。

 こういう時に、じっくり時間をかけて自分の考えを再編成し言葉を巧みに慎重に選び、捲土重来を期する。言論は主として書き言葉で行われますが、書き言葉は、この目的を果たすために絶好の道具です。言論は「いくさ」です。いくさは何度でも、手を変え品を変え行われなくてはなりません。そうしてこのように繰り返し行うことによって、自分の考えも鍛えられ、その武器も磨かれるわけです。それがます言論の第一の意義です。

 この言論の第一の意義は、特に具体的な反論者がいる、いわゆる「論争」の場合にのみ当てはまるのではありません。世の中に流布している考えや判断や「常識」がどうもおかしいと感じられるときや、これまで人が言ってこなかったけれど、どうもこういう考え方をしたほうがいいのではないかと感じられるとき、すでに「いくさ」は始まっています。あなたの発想がユニークであればあるほど、あなたの目の前には、「うんそうや」を「うんこや」と誤解する(思い込む)膨大な人たちが立ちはだかっています。その誤解をねばり強く解きほぐしていかなくてはなりません。そういう意味で、言論は目に見えない他者――無数の論敵を初めから潜在的に抱えているのです。

 さて、この第一の意義を語っただけでは、当たり前のことを言っているだけだという感が否めませんね。ここには、言論をめげずに委曲を尽くして行使すれば、いつかは、「うんそうや」は「うんこや」とは違うということを誰もがわかってくれるはずだという、一種のオプティミズムが前提されています。その意味で、これは言わば言論という営みの「理念」を語っているに過ぎないということになります。

 しかしこのオプティミズムをけっして捨ててはなりません。それは言論の営みを放棄することです。けれどもいっぽう、現実はそう甘くはありません。本稿の目的はむしろ、その甘くない部分に焦点を合わせて、言論の第二の意義を説こうとするところにあります。

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西部邁

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