ラムズフェルド回顧録
- 2015/7/24
- 政治
- 書評
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政治家と政治学者。
ともに政治に対して正面から向き合う職業だが、往々にして両者はある種の軽蔑の念を抱きながら、互いに眺めあっている。日本の不幸だといってよい。
政治家にとってみれば、政治学者の論ずる理論など机上の空論に過ぎない。実際に政治の現場に身を置いたことのない空疎な絵空事を論じているというわけだ。一方、政治学者にすれば、理論に関心を抱かない政治家など余りに粗野で野蛮に過ぎる存在だということになる。
両者の主張はともに真理の一面を鋭く指摘している。しかし、それはともに一面のみの主張であり、全く以て正しいとは言い切れない。
政治とは実践の場であると同時に理論を論じあう場でもあるからだ。理論を全く無視した政治はその場しのぎの利権の配分に終始するであろうし、実践を閑却した理論は机上の空論に過ぎないであろう。日々の実践の手掛かりとして理論を利用するのが政治家の使命であり、実践の可能性を勘案しながら論じ上げるのが政治理論でなければならない。とりわけ政治学者は政治家を侮蔑するのではなく、実践者としての政治家にある種の敬意を表するべきだろう。自身の生涯を賭けて選挙にうってでる実存的な選択は、書籍がうず高く積み上げられた研究室でゆっくりと研究している研究者には、理解が出来ない程、危険で、冒険的な選択だ。
政治を実践している政治家を理解するうえで欠かすことができないのが、政治家自身による回顧録である。その政治家が生涯をかけて実践してきた政治には学者の想像を絶する迫力が込められている。政治学者が忘れてはならない実践の困難と崇高さが描かれているといってよい。
九・一一の衝撃的なテロが勃発した当時国防長官を務めていたラムズフェルドの自伝は、実践としての政治を理解する上で格好の著作といってよい。
政治家に至る困難な道のり、政権内部の確執、不屈の信念、崇高な使命感、冷徹な現実主義、忠誠と友情。これらの一つ一つがラムズフェルドという政治家を作り上げたのであり、彼を「タカ派」と呼んで全てを理解したつもりになっている政治学者、ジャーナリストの類は政治というものを捉え損ねていると言わざるをえない。
小さな一例を挙げよう。ラムズフェルドは大量のメモを書き、担当者に渡していた。ここにもラムズフェルドの細かな政治的配慮が働いている。彼はメモを渡す理由を次のように述べている。
「口頭で伝えたのでは忘れられるか、後回しにされてしまうが、書面によってこそ、仕事を割り当て、文書の控えを手元に残せ、進捗状況を確かめられる」(二一九頁)
こうした細かな配慮を嗤う人がいたとすれば、それは実践としての政治を理解できない。人間と人間とが作り上げる政治は、小さな配慮の連続でなければならない。「神は細部に宿る」という言葉が至言である所以である。
勿論、本書はこうした小さな配慮のみを描いた本ではない。タカ派として知られるラムズフェルドならではの信念も吐露されている。
「弱さは攻撃を誘うと歴史は教えている。強さなら抑止できたはずの危険を、弱さは繰り返し招いてきた」(二五四頁)
アメリカよ常に強くあれ、そして世界の平和を守れという雄々しいラムズフェルドの信念が具現化したのが、タリバン政権打倒からイラク侵攻に至る「テロとの戦争」に他ならない。現在の段階でこれらの戦争の評価を軽々に下すべきではなく、その評価は歴史に委ねるべきだ。だが、何故にアメリカが戦争に至ったのかを理解することは重要である。日本国内で左右両翼が為す陰謀論の類は、本書を丹念に読み解くことによって一蹴されるであろう。
ラムズフェルドが政治の世界を志すことになったのは、奇妙な話だが、リベラルとして知られる民主党の政治家の言葉であった。
ラムズフェルドがプリンストン大学の四年生のとき、卒業を控えて、ある晩餐会が開かれた。その場に招かれたのはアドレー・スティーブンソンだった。彼は民主党から大統領選挙に立候補したが、共和党のアイゼンハワーに大差をつけられて敗れた敗軍の将であった。スティーブンソンは意気消沈するのでもなく、共和党の非難をするのでもなく、前途有望な優秀な学生を前に次のように政治参加の意義を説いた。
「教育、将来への展望、自制力に優れた米国の若者たちが全力を尽くして参加しなければ、米国はつまずき、米国がつまずけば、世界も倒れるだろう」
ラムズフェルドの強烈な使命感に火を付けた一言だった。
「米国がつまずけば、世界も倒れる」
日本には、日本がつまずけば、世界も倒れると考える気概のある政治家は、どれほどいるのだろうか。
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