集団的自衛権と憲法改正(その3)

 前回、「憲法改正」ではなく、断固として自主憲法制定を目指すべきだと述べました。しかしまた、そうは言っても、その成立を待っていたらいつまでたっても現憲法の不備をそのまま引きずることになりますし、解釈変更をこれ以上重ねるわけにもいきません。そこで、現実に適切に対処するためには、改正という駒を捨てないほうがよいとも主張したわけです。
 そこで、この問題は、思想理念の実現と便宜的対応との二つに分けて考えるのがよい。具体的には、自主憲法の草案を練る作業と、現行憲法の改正案を提示する作業との二刀流で行くのがよいだろうということになります。自主憲法草案の話は後回しにして、便宜的対応としての改正案は、できるだけ速やかに、かつなるべく多くの国民の合意を得やすい形で示すのが得策と考えられます。まずそれについて述べましょう。
 結論は簡単です。第九条2項だけを削除する。

 日本国憲法第九条2項: 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。交戦権は、これを認めない。

 先に述べたように、自衛隊は「その他の戦力」に相当します。現在、国民の大多数が自衛隊の存在を肯定しており、これを廃止せよという意見はまず見当たりません。すると、この条項を削除することは、現に自衛隊を認めている大多数の国民の意志にかなうことになり、反対する理由がないでしょう。
 とかく改正というと、人々は、新しい条項を付け加える(たとえば「ただし国家自衛の目的に資する場合には、その限りではない」など)、とか、文章を書き換える(たとえば「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力および武力の行使は、自衛のために必要な最低限度に抑えられなくてはならない」など)というふうに発想しがちです。
 しかし「削除」も立派な改正です。そればかりではありません。これは、法理としては、ポジティブリストからネガティブリストへの大きな転換を意味するのです。というのは、ポジティブリストの場合には、憲法に書かれていることに則る限りでの立法行為のみが許容されますし、もちろん禁止条項を破るわけにはいきません。ところがネガティブリストの場合には、書かれていないことにかかわる立法行為は、原則としてすべて許されていることになります。したがって、自衛隊の存在が公認される(もともと厳しい制約のもとではありますが、自衛隊法という法律も公認されています)ばかりではなく、自衛隊を国軍あるいは国防軍(陸海空軍)と名付けることも、原則的には可能となるわけです。言うまでもなく、集団的自衛権の承認に関して、重箱の隅をつつくような不毛な解釈合戦など、まったく要らなくなります。
 しかもこの方法の利点は、最も簡単な手続きで遂行でき、かつ多くの国民の合意を得られやすいと予想されるところにあります。もっとも、これでさえ、変えること自体に反対のサヨク護憲派は、感情的理由からいろいろと文句をつけて騒ぐに違いありませんが。
 さてそれでは、九条1項の方はこのままでよいのか、という面倒な議論が当然起きてくるでしょう。まさに面倒な議論です。やめておきましょうよ。これを動かそうとすると合意に達するのは容易ではありません。

日本国憲法第九条1項: 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

「希求し、」までは問題ないですよね。
「国権の発動たる戦争」を「永久に放棄する」ですが、「国権の発動ではない戦争」なら許されるとは解釈できないのか? そういう疑問が起きてきます。でも、そもそも「戦争」というのは「国権の発動」の一つに決まっているので、こんな屁理屈はもちろん通りません。通りませんが、そう読まれかねない言葉遣いになっています。で、平和主義理念からすれば、当然これは「放棄」したほうがいいでしょう。もっとも「永久に」ということになると難しいでしょうけれどね。自衛のために立ち上がらなくてはならないことも大いにあり得ますから。
 また、「国際紛争を解決する手段」ではないような「武力による威嚇又は武力の行使」とは何かという疑問も湧きます。この疑問を突き詰めると、そういう威嚇又は武力行使は、むしろ他国に対する一方的な制圧くらいしか思い当たらないことになり、なんとそれなら許されているという解釈すら成り立ちかねません。「国際紛争を解決する手段としての武力行使」という限定がついていることは、かえってそれ以外の目的にもとづく武力行使の余地を残しているような印象を与えます。
 GHQがこれを起草した当時は、敗戦国日本をまる裸にして絶対に武力行使をさせないようにするのが目的だったのですから、どうせならヘンな限定をつけずに、ただ「国際紛争を解決しようとする場合には、いかなる場合にも平和的な方法によらなくてはならない」とでもしておけばよかったのに。
 以上はもちろん皮肉です。
 それから先に述べたように、自衛のための武力行使・威嚇は、個別的なテロ対策のようなケース以外には、ほとんど「国際紛争を解決する手段としての武力行使・威嚇」に含まれるでしょうから、これが永久に放棄されるとなると、日本は個別的自衛権も持っていないということになるのですね。しかし自国に関連した「国際紛争」は早く「解決」するに越したことはないのですから、そのためには自衛のための武力行使・威嚇を伴う解決策も当然、選択肢の一つとして入れておくべきでしょう。
 かくして、この条項は何が何やら、論理的には解決不能な混乱に満ちています。条文の一字一句をめぐってああだこうだと議論すること自体が空しい。私自身これを書きながら、何だかバカバカしい気分になってきました。
 以上、ゴタゴタ書きましたが、何を言いたかったかというと、要するにこの条文は、これから日本は戦争しませんという単純な平和理念を、混乱を招くような拙い日本語で表現したものにすぎないということです。
 ところで、これはあくまでただの「理念」を謳ったもので、何ら具体的な運用を示唆してはいないし現実性もないのですから、たとえ拙い日本語であっても、ヘタに動かしてさらに混乱を招くようなことを考えずに、そのままほおっておけばいいでしょうというのが、私の考えです。「改正」を実効性あるものとするためには、その方が手っ取り早くて得策です。

 以上で、「便宜」としての改正についての考え方を披露しましたので、次に、「思想理念の実現」としての自主憲法草案作成についての基本的考え方を述べます。これを述べるにあたって、現行憲法、2012年に発表された自民党の「日本国憲法改正草案」、および2013年に発表された産経新聞の「国民の憲法要綱」を参考にしながら、同時に批判的な検討を加えます。

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西部邁

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  1. 2015-9-7

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