何のための言論か
- 2014/10/15
- 思想, 文化
- 言論, 議論
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言論とは、話したり書いたりして思想や意見を公表して論じることです。公表して論じるというその性質上、言論には考慮すべき点があるように思われます。
言論を問う
世の中には言論人と呼ばれる人たちもおり、言論活動によって生計を立てていたりします。言論人ではない一般の人も、ときとして言論に参加することがあります。必要にせまられたり、私的な欲求だったり、公的な動機からだったりします。
言論において人は、何らかの意見を表明するわけですが、そのとき、何のために言論をしているのかという問いが成り立ちます。当たり前と言えば、実に当たり前の話です。しかし、当たり前のことは、往々にして見逃されてしまうこともあるのです。
そのため、敢えて何のための言論なのかを問うということには、少なくない意義があるような気がするのです。言論の中身を問うということの前に、そもそも何のための言論なのかを問うということです。
言論における他者の存在
言論では意見を公表しますから、相手が必要になります。つまり、言論には他者の存在が不可欠だということです。
自分なりの意見を持って、自分なりに考えて生きていくというやり方もあります。この世を生きていく中で、自分なりに考え、自分なりに納得し、自分だけが分かっていれば良いと思えることもあるのです。そのような思考のあり方は、実際にあり得るでしょう。
それとは別に、他者へ自分の意見を表明するということ、つまり言論をするということも考えておくべきでしょう。言論が必要とされるとき、問題は自己の内部で完結してはおらず、他者の存在を必要としていることが分かるでしょう。
言論においては、自分と他者において、意見のやりとりが行われるということです。そのやりとりが必要なとき、その理由が何であれ、人は言論をし始めます。
衝突する各々の主義
世の中の言論を眺めてみますと、様々なタイプの意見があることが分かります。分かりやすい分類としましては、近代に生まれた(とされている)自由主義・社会主義・保守主義などが挙げられます。
例えば、自由主義者には、他人に危害を加えなければ何をしても良いという考えがあります。しかし、自由主義者は、自由主義の考えに反する自由は否定するのです。自由主義には一見して寛容さがあるような気がしますが、実はそこには寛容さを装った非寛容さが隠されているのです。ただし、それはほとんどの主義に言えることでもあります。
言い換えると、非寛容さは主義や主張の特性だということになります。そのため、各々の主義者は、互いに衝突することになるのです。
ここには、自分の意見を相手に認めてもらいたいという思惑が潜んでいます。もしくは、もっと露骨に、相手に間違いを認めさせたいという思考があるのかもしれません。
思想の修正可能性
何らかの意見に頼らざるを得ない状況は、充分に想定できます。しかし、そのようなときでも、その意見そのものを疑い、それを修正する可能性を模索することは可能なはずです。自分が信じている価値を、信じているからこそ疑ってみるという精神の働きはありえるのです。それができない者や、それをしない者との言論はむなしいものです。
つまり、まともな言論が行われるためには、双方向における修正可能性の想定が必要なのです。言い換えると、議論が共同作業であることが必要なのです。議論において、筋の通った意見に従うということが前提されていなければならないのです。自分の言い分に理があれば相手はその意見を認め、相手の言い分に理があれば自分はその意見を認めるということです。
ですから、そこにはある種の信頼関係が必要になるということです。信頼感が築けない相手とは、まともな言論を繰り広げることは残念ながらできないのです。
化けの皮が剥がれるとき
思想の修正は、言論において当たり前の前提でありながら、それはある種の人間にとっては致命的な条件になることがあります。なぜなら、自分が正しいと考えている意見が、より正しい意見によって覆されてしまうという恐怖がそこには在るからです。
その恐怖におののいた者は、尻尾を巻いてどうぞお帰りください。
自身の言論が、より整然とした論理によって打ち負かされるということは、恐怖でもありますが、別の見方をすれば喜びだと考えることもできます。そして、そう思える者もいれば、そうは思えない者もいるのです。
ですから、残念なことに言論することが無意味な相手もいるのです。例えば、カルト宗教を相手に、議論を仕掛けても無駄でしょう。無駄どころが、不当な方法によってこちらがダメージを受けてしまうこともあるのです。他にも、何らかの正しさを求めるためではなく、議論に勝って自分が優越感に浸りたいような者にも要注意です。そのような者は、相手をけなすことは大好きですが、自分の間違いを指摘されるのは大嫌いな場合が多いからです。
言論をするに値する者と、そうでない者の区別は非常に難しい問題です。その者の言論が勝ち馬に乗っているときはその判断がつきにくいものですが、その者が間違ったことを言ってしまったときの振る舞いである程度の判別が可能になります。
人間は完璧ではありえない以上、どこかで間違いを犯します。そのとき、その者がどのように振る舞うかによって、その者の真価が問われることになるのです。
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