何のための言論か
- 2014/10/15
- 思想, 文化
- 言論, 議論
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言論とその理由とその人の人生
人が言論活動をするとき、そこで語られる思想には理由があります。
・たまたまそこに属していたから。
・大多数が賛成しているから。
・議論で勝てるから。
・それが正しいと思われるから。
その理由如何によっては、悲しいことですが、思想がカルト宗教に変わってしまうことがあるのです。言論では、できるだけ丁寧に明確に説明することが大切です。大切なのですが、その誠意が無駄になる相手もいるのです。その見極めも、言論をする上では必要になってくるのです。
言論における議論は、人生における一手段だと考えることができます。そのように考えた場合、自分の人生のために、どのような議論をすべきなのかが問われてくるのです。
メディアで筋を通すということ
既存のメディアでは、何らかの正しさを求めるというより、既存の読者層に受ける記事を垂れ流しているといった面が濃厚です。朝日新聞なら、朝日的な言説を、産経新聞なら、産経的な言説を、ということです。その他の報道機関や言論誌においても、そういった面はあるような気がします。
そのため、それらの言説を批判し、より建設的な議論を展開するということがあまり行われていないように感じられます。もちろん、メディアが大きくなれば、そこには派閥が生まれてくることも否めません。しかし、それでも、何とか筋の通った言論が展開できないかと考えてしまうのです。
狭い派閥の中で、そのシンパに向けて居心地の良い言説を繰り広げていても、それにどれほどの価値があるのかと考えてしまうのです。議論のマナーに適っているなら、異論や反論も載せて、より良い言論を展開するように努めるべきだと思われるのです。
備考
現在、ASREADでは寄稿文を募集しているようです。
自分および仲間に対しての異論や反論が載る可能性のあるメディアというのは、ある種の言論人にとっては迷惑な話なのかもしれません。しかし、そういったメディアは必要だと考えます。そういったメディアが議論のマナーを守っている限り必要だと見なすのか、そういったメディアは危険だと見なすのか、言論をする人の資質が問われることになります。
ASREADについて、次のような記載があります。
ASREADは正しい情報を提供します、とは言いませんが、正しさへ向かうための情報を提供していきたいと考えています。
正しい情報のためには、異論も反論も必要になります。なぜなら、完全な人間など存在しないからです。そのため、まともな言論をしたい人は、ASREADへ投稿してみるのも面白いかもしれませんよ。
私もASREADがまともなら記事の投稿をしますし、まともではなくなったら残念ですが立ち去ります。皆様方も、御自身の判断によって、言論をするときにどうするのかを考えてみてはいかがでしょうか?
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