建設的な議論のために
- 2014/1/21
- 思想
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議論について
物事を考えたり思想を深めたりする場合、そこには論理が必要になります。そのためには、本を読んだりして勉強することももちろん必要ですが、他人と議論するということも重要になってきます。
他人と議論をすると、有意義な結論を得られることがある一方で、不毛な結果に終わってしまうことも少なくありません。できれば不毛な議論はしたくないので、議論が建設的になるための条件について少し考えてみます。
議論のマナー
議論には、議論のマナーがあります。議論のマナーを守らないと、議論そのものが成り立たなくなってしまいます。
議論のマナーを守る人と、議論のマナーを守らない人が同席している場合を考えてみましょう。たいていの人が経験していることだと思いますが、議論のマナーを守る人が、議論のマナーを守ったまま、議論のマナーを守らない人を注意しても事態が良くなることはまれなのです。それどころか、議論のマナーを守ったまま対応すると、議論のマナーを守らない人によって議論の場が荒らされてしまうこともあります。
つまり、議論のマナーを守らない人には、議論のマナーを守ったままでは対応できない可能性があるのです。
議論のマナーを守らない人については、議論から排除しなければなりません。そこには強制力が必要であり、暴力では言い過ぎなら、武力の行使も検討されるべき項目に含まれます。武力の他にも、議論のマナーを守らない人を排除する方法はいくつかあります。例えば、議論に入るための資格を設けたり、あからさまな手段としては無視したりすることなども考えられます。
「無視する」などの行為については、それに嫌悪感を抱くひとも多いでしょう。その感覚は、通常は正しいと言えます。しかし、常に「無視する」という選択肢を排除することが正しいとは限らないのです。場合によっては、「無視する」ことを意図的に行使することも戦略に組み込んでおくべきです。少なくとも、このことは検討に値すると思われます。
批評の基準
議論から排除すべきか否かの判定基準は、当然ながらその参加者が議論のマナーを守る人かどうかにかかっています。
では、議論のマナーとは何でしょうか? いくつか考えることができますが、ここでは批評と言えるかどうかという基準で考えてみることにします。議論では、単なる感想や中傷ではなく、批評を行なうべきだと思われるからです。
『大辞林 第三版』では、批評は「事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること」と定義されています。『岩波 哲学・思想辞典』には、批評は「人間の製作した具体的な対象もしくは人間が関わりをもつ事象の特性を分析し、評価する行為の総称」と説明されています。これらの定義について、少し掘り下げてみます。
まず「事物」や「具体的な対象」や「人間が関わりをもつ事象」とありますから、対象が明確化されているということは指摘できそうです。次に、「善悪・優劣・是非」や「特性の分析」などの用語から、客観性のある根拠が必要だと判断しても良さそうです。よって、ここでの批評とは、「明確化された対象を客観性のある根拠を示して評価(肯定/否定)すること」だと考えておきます。
この定義の条件が満たされていなければ、批評ではないということになります。その場合、評価が否定的なものなら、単なる悪口(わるぐち)になってしまいます。
この批評の定義から、批評とは検証可能なものだ、ということが導かれます。検証可能であるとは、難しく言えば反証可能性を有しているということであり、簡単に言えば間違っている場合は間違っているときちんと言えるということです。
建設的な議論を行う場合には、議論の参加者が批評を行えることが必要になるのです。もちろん、批評を行えばそれが建設的な議論になるかと言えば、必ずしもそうだとは言えません。あくまでも、批評ができることは、建設的な議論の最低限の条件だということです。
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