建設的な議論のために

悪口が社会的に悪い理由

 悪口が社会的に悪いことは、「悪」という漢字が入っていることからも明らかです(ドヤッ)。
 証明終了。
 ………。
 これではあんまりなので、悪口が社会的に悪い理由についてもう少し考えてみます。
 脳科学の分野の知識を用いて、人の悪口を言うと、結局は自分自身が傷つくことになってしまうという結論を導くこともできます。脳の働きから、悪い言葉は自身への悪影響をもたらす可能性を指摘できるからです。それには一理ありますが、もっと別の角度から考えていきます。
 それは、悪口は楽しいという視点です。もちろん、私は悪口なんか楽しくない、言うのも聞くのも大嫌いだという方もおられるでしょう。ですから、ここでの考え方は、悪口を楽しいと感じる人もたくさんいるという事実に基づいています。
 では、なぜ悪口は楽しいのでしょうか?
一つの理由としては、個体としての生命体は、自分に害が及ばずに、(他者などの)対象を好きなように支配できることを好むという性質が挙げられます。このような状態は、自己の生命保全にとって有利になることは明らかですから、個体としての生命体にとっての理想状態だと言えるかもしれません。
しかし、このような理想状態を実現したり維持したりすることは極めて困難です。そのような場合、生命体は群れのような仕組みを利用することがあります。個体として行動するのではなく、集団で行動することによって自己の生命保全を図るのです。そのときには、群れのルールに従うことが必要になります。そのルールは、個体における好みとは異なることがありえます。人間の場合は、群れのルールに相当するものが、社会性として論じられることになります。人間にとっては、集団行動において統制を取るための方法が社会的な善となり、統制を乱すような振る舞いが社会的な悪となるわけです。
このような構造を基に考えるなら、悪口は検証可能でなく建設的でないため、社会的な悪と見なされることが分かると思います。悪口を排して建設的な議論によって物事を進める集団は、そうでない集団よりも有利になると考えられるからです。
動物の中には、生殖行為を除いてほとんど単独行動で一生を終える種族もあれば、集団行動に従って一生を終える種族もあります。人間の場合は、他の動物との相対比較から、集団行動よりの動物だと言えそうです。
 そうであるならば、個人が悪口を好むより、悪口を嫌悪するようになった方が、都合が良いということにならないでしょうか?
 ある面においては、都合が良いと言えます。そのため、人間は教育という特別な営みを通して、悪口は嫌悪すべきものだという観念を埋め込まれることになるのです。このことは、「道徳の内面化」と呼ばれたりします。悪口についての道徳を内面化した個人は、悪口を聞くと嫌な気持ちになったり、悪口を言うと罪悪感を抱いたりするようになります。
 人間が社会的な動物である以上、この「道徳の内面化」の問題は常につきまといます。その内面化の浸透具合には、個人差があります。

道徳の内面化の程度について

 悪口における「道徳の内面化」の程度について、少し考えてみましょう。
 内面化の程度が高い人は、悪口を嫌う人になります。このような人を便宜的に、「心のきれいな人」と呼んでおきましょう。一方、内面化の程度がそれほど高くない人は、悪口を言うことが楽しかったりするわけです。
 心のきれいな人は、悪口を聞くと嫌な気持ちになります。すごく心のきれいな人は、悪口を言うことが信じられないと言います。はっきり言ってしまうと、すごく心のきれいな人は、悪口を楽しむ人の心を理解できないのです。
 ここで、思考実験をしてみましょう。悪口に嫌悪感を抱き、悪口を言うことが楽しいということを理解できない程に心のきれいな人たちが、理想的な社会を築いていくという実験です。
 この心のきれいな人たちは、もちろん悪口を禁止するでしょう。徹底的に禁止するでしょう。相互監視などの制度を設けるかもしれません。その結果、悪口のない、理想的な社会が築かれることになるでしょう。
 ただ、私にはこのユートピアはディストピアにしか思えません。その根拠を、簡単に二つほど述べておきます。一つ目は、個人と集団は同一ではないという単純な事実です。二つ目は、集団の論理は完全ではないため、各個人間において相互作用を働かせる必要があるということです。
 ちなみに、私は心がきれいではないので、人の悪口を言うのが実に楽しいという心理はとてもすごく理解できます。それでも、私は悪口が嫌いです。別に正義感から言っているわけではありません。ただ、私は建設的な議論が好きなのであり、悪口はその建設的な議論を破壊してしまうから嫌いなのです。ですので、悪口を言うような人とは親しくなりたくないのです。

批評の中身について

 建設的な議論のために、悪口を排除して批評を行うべきことについて述べてきました。検証可能な批評であることは、建設的な議論の最低限の条件なのです。
つまり、ムキになって自分の意見を押し通すのではなく、反証されたら(間違いを指摘されたら)自分の意見を修正すべきことが大切なのです。反論に対する再反論をする場合にも、客観的な根拠を示すことが必要です。反論だけではなく、質問や代案を有効に活用することも必要になってくるでしょう。自分の意見を修正する心の余裕がないなら、議論には参加しない方が良いかもしれません。
 自分の人生を建設的なものにしたいと考える人は、建設的な議論のできる友人を持つことが有意義でしょう。そのためには、悪口を言う人と距離を取ったり、悪口を言っている人を世間的に公表したり、公的な手段に訴えたりして、悪口を言う人を排除する必要があります。もちろん、悪口の判定には曖昧さがつきまといますから、厳密性を追求しすぎることには注意が必要です。思考実験の結果から分かるように、排除についても程度問題だとも言えます。
ただ、建設的な議論のために、悪口にどう対処するかを予め検討しておくことには、少なくない意義があると思うのです。当然ながら、ここで示した考え方は、用語を恣意的に用いている面もありますし、間違っている箇所も、修正すべき箇所もあるでしょう。ですから、一つの考えるきっかけとして提示したに過ぎません。建設的な議論を行うためには、みんなが試行錯誤しなければならないという当たり前の話です。「批評」という難しい用語を使ってグダグダと述べてきましたが、要するに、悪口のような卑劣な方法ではなく、ちゃんとまともなことを言えよ、というだけの話なのです。
 さて、悪口を排除したら、次には批評の中身が問われることになります。孔子の『論語』に、「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」という言葉があります。見事な言葉だと思います。建設的な議論へ向けて、どのような批評であるかが問われることになるのです。好むことや楽しめることを批評する場合は、そうでない場合よりも有意義になるような気がするのです。
このことは論じるに値するテーマですが、長くなったことですし、ひとまずここで本論文を終えたいと思います。

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西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
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