『日本式正道論』第一章 道の場所
- 2016/7/8
- 思想, 文化, 歴史
- seidou
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【目次】
第一章 道の場所
第一節 和歌
第一項 万葉集
第二項 古今和歌集
第三項 新古今和歌集
第二節 随筆
第一項 方丈記
第二項 徒然草
第三節 物語
第一項 源氏物語
第二項 平家物語
第三項 太平記
第一章 道の場所
日本史には、無常観が流れています。
『古事記』の天孫降臨において、邇邇(ニニ)芸能(ギノ)命(ミコト)は美しい木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)と結婚し、醜い石(イワ)長比売(ナガヒメ)とは結婚しませんでした。そのときのことが、〈天つ神の御子の御寿(みいのち)は、木の花のあまひのみ坐さむ〉と記述されています。そのことが、〈今に至るまで天皇(すめら)命(みこと)等(たち)の御(み)命(いのち)長からざるなり〉とあるように、天皇の寿命がそれほど長くない理由とされています。命が長くないことが、岩の強固さに対する花の儚さとして示されているのです。
日本では、儚さが心に届いて無常観が現れます。日本人は、厳しい無常を見据えた上で、優しく美しく無常を記します。人生や世の中(世間・世界)をはかないものとみる無常観は、日本人の意識に深く染み込んでいます。人生は常ならず、世の中は常ならず、すべてのものは常ならず。栄えるものも、驕れるものも、義に殉じるものも、すべては滅び行くのです。この世はまるで夢幻(ゆめまぼろし)・・・・・・・・・。
大事な点ですが、日本人にとって無常は落胆のみをもたらすものではありません。なぜなら、人生や世の中は常では無いけれども、それを見据えて諦観し、その上で無常を無常ながらに生きる覚悟を決めているからです。儚い世の中の儚い命だからこそ、懸命に潔く生きるのです。人生を無常と思うこと、世の中を無常と思うこと、このことは、日本人の生き方や死に方に深く関わっています。
無常な世の中で、無常な人生は、どこへ向かうのでしょうか。無常において、日本人は道に出会いました。無常の上で道を歩むという営為、無常において道を行く、このことを私たちは日本史の中に見ることができます。日本における道の場所は、「無常」です。
本章では、日本史の中における、無常という場所において道を行くという営為を見ていきます。和歌と随筆と物語の中から、これぞ日本の代表作と言えるものを選んで見ていきます。
第一節 和歌
日本人は、歌が大好きです。感情を歌にあらわすことは、日本の歴史において「和歌」として結実しました。和歌は、日本の心だと言えるでしょう。
和歌には、様々な主題が詠われています。四季の歌や恋の歌など、実に彩り鮮やかです。その中には当然、「無常の歌」と「道の歌」もあります。本節では、和歌の三大歌風である『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』の中から、無常と道の関係を見ていきます。
第一項 万葉集
『万葉集』は、二十巻におよぶ日本最古の和歌集です。数度におよぶ編集を経て、現在の形になったものは奈良時代末頃だと言われています。歌数は約4500首、形式も多様であり、作者も天皇・皇族・農民・遊女など多岐にわたります。
万葉集の特徴は、「ますらをぶり」と言われます。「ますらをぶり」とは、賀茂真淵(1697~1769)の『にひまなび』に、〈万葉集の歌はすべて丈夫(ますらを)のてぶり也〉とあるように、古代の素朴で力強い男性的な歌風を意味しています。
万葉集の歌の中には、はかなさや無常観を詠ったものがたくさんあります。特に、四一六0首~四一六二首は、題名が「世間の無常を悲しびたる歌」と云い、注目に値します。四一六0首は、〈天地の 遠き始めよ 世の中は 常なきものと 語り継ぎながらへ来れ〉という言葉で始まります。天地の遠い昔から、世の中は無常だと語り継がれて来たというのです。
万葉人の無常観には、命のはかなさに関する場合と、世の中のはかなさに即していう場合があります。次に、いくつか挙げてみます。
うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み思ひつるかも〔巻第三・四六五〕
世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり〔巻第五・七九三〕
世間を常無きものと今そ知る平城の京師の移ろふ見れば〔巻第六・一0四五〕
隠口の泊瀬の山に照る月は盈昃しけり人の常無き〔巻第七・一二七0〕
世間も常にしあらねば屋戸にある桜の花の散れる頃かも〔巻第八・一四五九〕
言問はぬ木すら春咲き秋づけば黄葉散らくは常を無みこそ〔巻第十九・四一六一〕
うつせみの常無き見れば世の中に情つけずて思ふ日そ多き〔巻第十九・四一六二〕
世の中は常無きことは知るらむを情尽すな大夫にして〔巻第十九・四二一六〕
このように『万葉集』では、世の中のはかなさ、人の命のはかなさをうたった無常の歌がたくさんあります。そして、無常を詠った歌がある一方で、道に関する歌もたくさんあります。謡われる道も、様々な「道」があります。
例えば、〔巻第五・八00〕では〈道理〉が語られています。〈父母を 見れば尊し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞ道理〉とあります。両親は尊く思われ、妻子は愛しく感じられるというのが、この世の道理だというわけです。〔巻第六・九七四〕では、雄々しい男子のための〈丈夫の行くといふ道〉が語られています。〔巻第十一・二三七五〕では〈恋する道〉、〔巻第十七・四00九〕では、路傍の神である道祖神が〈玉桙の道の神たち〉と示されています。道についての歌で特に注目すべきは、〔巻第二十・四四六八〕と〔巻第二十・四四六九〕でしょう。この二首では、無常において道を行くという構成を示しています。
うつせみは数なき身なり山川の清けき見つつ道を尋ねな〔巻第二十・四四六八〕
渡る日の影に競ひて尋ねてな清きその道またも遇はむため〔巻第二十・四四六九〕
〔巻第二十・四四六八〕では、この世は儚いという認識の上で、自然の清らかさを眺めながら道を尋ねることが述べられています。〔巻第二十・四四六九〕は、来世もまた清らかな道に巡り逢うために、太陽と共に道を尋ねることが述べられています。〈渡る日の影に競ひて〉とは太陽の光と時を争うことで、無常な時の移ろいに遅れないようにということが意図されています。ちなみに、この時代での「影」という言葉は現代でいう「光」を意味しています。
以上のように、『万葉集』には、命や世の中を無常と観る歌や、道を求める歌が詠われているのが分かります。
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