『日本式正道論』第一章 道の場所

第二項 平家物語

 『平家物語』は、13世紀前半に成立したと推定されています。作者は未詳です。仏教の影響が強く、仏教的な因果論が語られています。日本人の無常観を代表するものとして、『平家物語』の冒頭〔祇園精舎〕の言葉はあまりにも有名です。

  祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。
  沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
  おごれる人も久しからず、唯春の世の夢のごとし。
  たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 祇園精舎は、古代インドの舎衛城郊外にあった仏教の寺院のことです。沙羅双樹の花は、釈尊入滅のとき、いっせいに色を変えたと言われています。この文章は、日本人の無常観を表現したものの中でも最高峰でしょう。『平家物語』では、ここ以外にも素晴らしい無常の表現があります。
 例えば、有名な〔先帝身投〕の場面における無常があります。敗北が決定的であることをみてとった二位尼が、神器を身につけ、安徳帝を抱いて、悲壮な最期を迎えます。〈悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分断のあらき浪、玉体を沈め奉る〉と詠われています。春の風で花のようなお姿は散りゆき、荒波により天子のおからだは沈んでしまわれました。
 そしてまた、寂光院の寂寞さと、女院の転変を表現した〔大原入〕における無常があります。〈無常は春の花、風に随って散りやすく、有涯は秋の月、雲に伴って隠れやすし〉と詠われています。無常は風で散りゆく春の花に例えられ、限りある人生は雲に隠れてしまう秋の月に例えられています。
 このように『平家物語』には、栄えるもの、驕れるものの滅びがあります。それどころか、義に殉じるものの滅びも語られています。そこには、すべてのものの滅び行く悲哀感が流れ、滅びの倫理が浮かび上がります。この悲哀感には、仏教の影響が見られます。それゆえ、この無常の物語における「道」には、仏教と無常が強く作用しています。
 例えば〔祗王〕では〈かやうに穢土を厭ひ、浄土をねがはんと、ふかく思ふいれ給ふこそ、まことの大道心とはおぼえたれ〉とあり、現世を厭い、極楽浄土への往生を願うことが大いなる道心であると語られています。しかし、人の心は複雑なものです。〔物怪之沙汰〕では〈うき世を厭ひ実の道に入りぬれば、ひとへに後世菩提の外は、世のいとなみあるまじき事なれども、善政をきいては感じ、愁をきいてはなげく、これみな人間の習なり〉と語られ、出家しても、人の世の出来事に一喜一憂するのは人間として当然の習いだと述べられています。〔熊野参詣〕でも、〈うき世を厭ひ、まことの道に入り給へども、妄執はなほつきずと覚えて、哀れなりし事共なり〉とあり、出家しても妄執を断つことができない様が語られています。〔女院出家〕でも、〈浮世を厭ひ、まことの道にいらせ給へども、御歎はさらにつきせず〉とあり、出家したところで嘆きは尽きることがないというのです。
 〔僧都死去〕では〈人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道にまよふ程も知られける〉とあります。親の心は闇ではないけれども、子を思う道に迷うものだということが語られています。〔維盛入水〕にあるように、〈たかきも賤しきも、恩愛の道は力およばぬ事なり〉ということなのでしょう。身分の上下によらず、恩愛の道はどうにもならないとされています。〔六道之沙汰〕で〈ただ恩愛の道ほどかなしかりける事はなし〉とあるように、親子の情愛ほど悲しい物はないのかもしれません。〔一門大路渡〕にも〈あはれたかきもいやしきも、恩愛の道程かなしかりける事はなし。御袖を着せ奉りたらば、いく程のあるべきぞ。せめての御心ざしのふかさかな〉とあります。御袖をおかけしたからといって、どれほどのことがあるのでしょうか。まことに切実な親の愛情の深さだと語られています。この語りの後、〈たけきもののふどもも、みな涙をぞながしける〉と続きます。勇猛な武士も皆、涙を流すのです。
 また、〔宮御最期〕では、死に際において無常を詠うという和歌の道が美しく語られています。〈埋木のはな咲く事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける〉と、自身の生涯が埋もれ木に花が咲かないことに例え、我が身が埋もれたまま最期を迎えるのを悲しみます。そして、〈これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬか(ッ)てぞうせられける〉と、最後に和歌を詠い、太刀にて自害します。〈其時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も忘れ給はず〉と、このような時に歌を歌うことなどできなさそうなものですが、若いときから親しんだ道だったので最後のときにも忘れることはできないと記されています。
 〔願書〕では、〈運を天道にまかせて、身を国家に投ぐ。試に義兵をおこして、凶器を退けんとす〉と、天道という観念が出てきます。物事の趨勢は運に左右されます。運は天道に左右され、そこに無常による諦観が仄見えますが、同時に無常による覚悟も見られます。
 最後に、〔鏡〕の一説を取り上げます。〈道をうしなはじとおぼしめす御心ざし、感涙おさへ難し〉とあります。ここでは、芸道を絶やすまいとお思いになった天皇の御志に対し、感動の涙をおさえがたいことが語られています。

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西部邁

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