「命が一番大事」という価値観は人間をニヒリストにする
- 2013/12/26
- 思想
- 丸山眞男, 古市憲寿, 西部邁
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「いくら祖国のためとはいいながら、死ぬのは嫌だ、それがホンネというものだ」と言い張る人間が多い。実際に私は、あるテレビ・キャスターからそのような言葉をあびせかけられたことがある。
(『国民の道徳』西部邁)
現代人のほとんどは、「死んでしまえは全部無になる、だから一番大事なのは生命なのだ」などという一見もっともらしく思える説明に対し、ほとんど無批判に全面的にその主張を受け入れます。しかし、このテーゼについてもう少し突っ込んで考えてみれば、あらゆる人間はいつか死ぬのだという当たり前の現実に直面し、この現実に直面するや、生命を第一の価値とするその主張の前提となる「死んでしまえば全て無になる」という考えに立ち返った時、生命のあらゆる活動の意味は喪失し、結果として「死んでしまえは全部無になる、だから一番大事なのは生命なのだ」前提が生命そのものの価値もたちまち無と帰すというなんとも奇妙なパラドクスに直面することとなります。
生命第一主義者や金銭至上主義者の底流にあるのは絶望なまでのニヒリズム
すなわち、「死んでしまえば全部無になる、だから一番大事なのは生命なのだ」という前提のもとに、生命を至上の価値とみなす思想は、即座に無を愛しそれを至上の価値観とする傾向と直結し、即座にニヒリズムへと人を誘います。つまり、一見、世俗的でもあり、同時にヒューマニズム的でもあるように思われるこの生命第一主義とでも呼ぶべき価値観は、もう少し丹念に検討してみれば、人間をして、全ての価値と無と帰す、究極的な価値の破壊者、文字通りのニヒリストと化すのです。
これは、資本の無限の増殖を是とする近代資本主義社会における金銭至上主義的な価値観が即座にニヒリズムに落ち込むのだという現象と非常に類似性を持つものであるように思えます。つまり、
「何のためにお金を稼ぐのか?」
「何のためにお金を使うのか?」
という問から切り離された金銭至上主義的価値観が人間をニヒリズムに陥れるのと全く同様に、
「何のために生きるのか?」
という問いを喪失した状態において、生命のみを至上の価値観とする生命第一主義も人間をニヒリストと化すわけです。
ニヒルを気取って「所詮、世の中で一番大事なのは金だよ」と言う者も、「一番、大事なのが人間の生命なのです!!」などと熱く絶叫する者のどちらにも共通するあの賎しい顔つきを見れば、なんとなく彼らの共通点は直感的に感じ取れるのではないでしょうか。一見、前者は非人間的な冷たい印象を抱き、逆に後者は心暖かいヒューマニストであるかのように思えますが、たとえ当人は意識していなくとも、根底にあるのはどちらもあらゆる価値を無に帰そうと企てる絶望的なニヒリズムなのです。
何も、私はそこで生命尊重の価値観を完全に否定する気もないのですが、生命第一主義的な価値観が否応なく、あらゆる価値を無と帰す危険思想となりうるものだという判断に立つならば、せめてその価値を相対化する必要はあるでしょう。
まず、私的には死にたくないが、公的には死なねばならぬかもしれないと考える。次に、その公的な義務を放棄したような自分のことを考えると、私的にも不愉快になるので、公的に進んで危地に赴こうとする。しかし、そこでも、私的には、なおも死にたくないと願う。こういうホンネの気持ちにおける循環は誰にでも生じることで、その循環に終止符を打つべく、人間の社会は徳律と法律のタテマエを蓄えてきたのである。つまり、タテマエなんかどうでもよいと考える人間は、ホンネにおいて公私の葛藤がない単純人間、いいかえると私心しかない人非人なのである。
私は、以前書きました『私徳と公徳のジレンマについて』という記事において、私的な徳性と公的な徳性を分けて、この二つの徳の平衡を維持するにはどうすればいいのか?という問題について考察しましたが、ここの記事で書かなかった問題として、私益の問題があります。つまり、先の記事で取り上げたような私的な徳性と公的な徳性の間の葛藤のみではなく、むしろ現実社会においては、公的な徳性や利益と、個人の私的な利益の間における葛藤の方がむしろ、より直面する場面が多いでしょう。
西部さんは、このような細かい腑分けはあまりせずに、公的、私的という二分割で公と私の観念を分離しましたが、私は出来れば、より細かく公徳・公益・私徳・私益と分けることが望ましいように思えます。最も、公徳と公益という概念に関しては、あまりその二つの間で深刻な葛藤が起こることはそれほど多くはないのかもしれません。基本的に公益に資するよう努力することそれ自体が、非常に公徳に適っていることが多いからです。
しかし、それでも例えば、日本のイラク戦争に関する関与に見られるように、アメリカの侵略戦争に支持を表明することが、日本という公の徳性を損ないながらも、(私はそうは考えませんが)日米関係を堅持するためにイラク戦争を支持することが必要であったと仮定するならば、あの状況でイラク戦争を支持することが公益に適っていたという可能性もあります。このように考えるならば、やはり、公徳と公益が対立するような状況もありうると考えるべきでしょう。
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2コメント
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ニヒリズムを克服するには自分自身の保身以外に生きる目的を見付けなければいけないというのはよく分かりました。
一つ疑問なのですが、国とは一体なんでしょう?私は国の何に忠誠を誓えばいいのですか?天皇陛下でしょうか?それとも自分以外の人のためでしょうか?
人のため、と言いながら死んだ顔して社会で生きている人間もいますが、彼らはなぜ人生を薄っぺらくしてまで生命を長らえさせて私心を殺して生きているのでしょうか。
生きる目的を設定するのは簡単だと思います。
ただ、設定すること自体にはやはり自分の好みとかが関わって来ますし、別に生きる目的の意味が国のためで無くてもいいような気がするのです。
それに、戦後これだけ愛国心を持たないものが増えているということは、愛国心が真理ではなく、意図的な教育の結果育まれるに過ぎないものではないかとも思うのです。
わたしも上の方と同様に、『国家』という枠組みこそ、相対化して見るべきだ、と考えました。
出国制限をかけられるなら、そのこと自体の、正当性や是非こそ、問われるべきです。出国制限が、かけられたからという理由で、国のために死ぬことを、賛美されますか?
それは、過去にナチスがやっていたことです。過去の歴史を見ると、あらゆる強権的・独裁的な国家が、平気で行ってきている。どこのどんな国でも、戦争を強制させる可能性があり得るのです。日本だけは大丈夫?大丈夫だと思っていたのが、50年前の日本人でした。
事が起これば、もちろん、それはあなたをも、対象とします。
あなたの家族をも。
ヒューマニストが、いつのまにか、自分の生命だけを愛するような、ニヒリストやエゴイストになりかねないという部分は、確かに、そのとおりだと思います。
愛するがゆえに、見落としているものがある、ということですね。
公徳・公益という観点も素晴らしいと思います。
ただ、このときに、公徳・公益が、国家だけを指す必要はないと思います。
国を越えた枠組みでも、公共的な、公徳・公益は、あります。
たとえば、環境破壊への取り組みは、一国の枠組みの中では、解決しません。
また、国内の県市町村の単位の問題や、身近なささやかな公徳・公益もあるでしょう。
身近な人への配慮こそが、公徳の基礎にあたるのでは、ないでしょうか?家族単位の公徳・公益もあるし、友人同士の集団でもあるはずです。
愛国心を賛美することで、見落としている物事にも、向き合うことは、大事なことだと思います。
わたしの立場は、「人はみな死ぬ」からこそ、この一度限りの生を、輝かせたい、と考えます。人の生は、遠くから見れば一瞬です。
その輝かせ方は、国のために、限定される必要はなく、それぞれの価値観(公徳・公益・私徳・私益)に従う道もあると思うのです。
ほんの少しでも、輝かせる努力をするだけです。
まずは学びましょう。
そして自分にとっての最善の道を。
意図的な教育を受けたとしても、
幾らでも自ら学び
自分の目と耳で
自分にとっての道を
発見すれば少なくとも方向は見えるでしょう。
結果の帰結として、
色々な主義や思想にたどり着く。
そこは強制されるものではなく、
個人が気付くべきものなのではないのでしょうか。
少なからず、物事や考え方には段階があります。
同じ事の繰り返しで見えることも気付く事も
あるでしょう。
物質的なモノから脱して思考してみる
大切なコト。
歴史、過去、現在、未来
そしてこの国が繋いできた文化。
全て意味と理由がある。
ただやはり学び続け
どうあるべきであるかを
自分の形と型で
追求して行き、
結んで行きましょう。