空間を思索する場に仕立てた俳優の力 東京デスロック『Peace (at any cost?)』

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photo by bozzo

 演出家・多田淳之介が主宰する東京デスロックは、2012年5月に上演した『MORATORIUM モラトリアム』(STスポット)以降、韓国との共同制作を除いて表現形態が変化した。そして《地域密着、拠点日本》をスローガンに、『東京ノート』(2013年1月)で東京公演を4年ぶりに再開。私は『東京ノート』で、変化した表現に初めて接した。フワフワとした白い綿が敷き詰められた床に、観客はおのおのに座る。観客が点在する中で俳優は演技するため、客席と舞台の境界が溶解する。ここしばらくの多田の関心は、俳優と観客が空間内で一体となって、ひとつのテーマについて共同討議するような場を創ることにある。このスタイルでの上演は『MORATORIUM モラトリアム』の他に、『CEREMONY セレモニー』(2014年7月、STスポット)がある。
 私は『CEREMONY セレモニー』も観たが、このスタイルに懐疑的であった。参加する者同士のコミュニケーションを促すために、俳優が観客に話しかけたり、手をつないで輪になって簡単な踊りをさせたりと、直截的な接触を取り入れていたからだ。それはなんとも安直であり、そのことで作品の底を浅くしていたからである。ところが今作『Peace (at any cost?)』《5 years past from 2011.3 ver.》 (inspired from 『アカルナイの人々』アリストパネス著、演出=多田淳之介、ドラマトゥルク=中田博士)ではそのような観客へのアプローチがなく、俳優の語りを重視したことにより、非常に緊密な舞台空間が創出された。深い内省を促された観客は、周りにも同じく思索する人たちが居ることを発見する。それを知るだけで何らかのシンパシーを感じることができる。そのような、同じ事柄について共に考え、見聞きしている感覚が波のように空間に広がってゆく。多田が想定した創り手と観客、あるいは観客同士の対話は、俳優の語りを通した<間接的>な方法によって成立したのである。
 床に風呂場で使用するような白い樹脂製のバスマットが敷き詰められた空間。入場した観客は、自動で回転する平和の象徴、ハトの置物を中心に、各自床に座る。空間の奥のスペースはロープで横に区切られている。開始前に、ハトによるアナウンスが何度か流れる。観客が座っている位置が平和なエリアであり、ロープで区切られた先は、危険地帯である外から人が出入りしてくるエリアだから踏み入れないように、というものであった。そのスペースは人一人が立てるほどしかなく、すぐ後の壁はスクリーンとしても機能しており、空間内の様子を捉えたライブ映像などが投影される。
 本作のテーマである「平和」は、紀元前425年に執筆されたアリストパネス『アルカナイの人々』がモチーフとなっている。ペロポネソス戦争中、スパルタとただ一人単独講和を結び、自宅を平和国家にしたアンフィオスが登場する作品は、最古の反戦劇として知られる。観客の座るエリアがアンフィオスの家になぞらえられているのだ。舞台開始からしばらくは、上手の危険地帯から一人ずつ俳優が訪れて様々なテキストを語り、下手に去ることを繰り返す。一人目の夏目慎也は「日本国憲法 前文」を読み上げ、続いてやってきた女優は「第一回広島平和宣言」を読み上げる。他にも、東日本大震災時に国民へ向けて行った菅直人元首相の会見や正力松太郎の原子力委員会発足に際してのあいさつ、マララ・ユスフザイの「ノーベル賞受賞スピーチ」、はたまた谷川俊太郎や与謝野晶子といった文学の一節などを、俳優は語る。テキストは平和や原発、戦争、震災に関するものが選択されている。これらのテキストを聞くことによって、我々は平和とは何かについて想いを馳せることになる。同時に、これらの資料は今日までの時間軸をも示す。つまり、我々は戦後70年の日本の現代史の一端を辿ることになるのである。その過程で、例えば1956年に行われた正力松太郎のスピーチが、原発政策を推し進める起点となっていること、その果てに2011年の福島第一原発事故に帰結したことを改めて知る。あるいは、震災で母を亡くした岩手県大槌町の八幡千代さん(当時11歳)が書いた作文「つなみについて」からは、自然の驚異について改めて震撼させられる。俳優たちはそれぞれ、最初は手元のテキストを読み上げるのだが、やがて観客の方を見て発語する。テキストの朗誦から暗誦へ。他者の言葉がしだいに俳優の身体に血肉化してゆく過程が連続して提示される。俳優の身体で起こる変化を見せることで、テキストは衝迫力を伴って観客に届けられるのだ。『CEREMONY セレモニー』との違いは、俳優の身体変化を伴う語りの強さが十全に発揮されているからである。「つなみについて」の間野律子とマララ・ユスフザイの「ノーベル賞受賞スピーチ」を語った原田つむぎの語りとその姿がとりわけ印象的であった。

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西部邁

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