近代を超克する(32)近代を超克した後に

「近代の超克」特集ページ

 近代的な価値観を超克するために、政治上におけるデモクラシー(民主主義、民衆政治)・思想上におけるリベラリズム(自由主義)・経済上におけるキャピタリズム(資本主義)を批判してきました。

対進歩主義

 ここでは、最後のまとめとして、西欧的な進歩主義(progressivism)を否定し、そこに立たないことを宣言します。
 『哲学・思想翻訳語辞典』には、「近代・モダン」について次のような説明があります。

 17世紀フランスの新旧論争(Qurerlle des Anciens et des Modernes)を契機として、「古きもの(anciens)」と「新しきもの(modernes)」との対比は、歴史を没落とみなすか進歩とみなすかといった歴史観の対立を反映するものとなった。古典古代を模倣すべき範例とみなす人文主義的伝統はもはや自明のものではなくなり、「近代」科学の進展とも相まってしだいに進歩信仰が高まったのである。ここで「新しきもの=近代」は進歩概念と結びつくことになる。

 進歩主義とは、進歩そのものを好ましいとする考え方であり、変化そのものが進歩をもたらすという価値観のことです。歴史を人間社会が最終形態へ向けて発展する過程と見なす進歩史観(progressive view of history)とも密接に関係しています。そこには、キリスト教的歴史観の影響が見られます。
 西欧の文脈では、この進歩主義というのは大きなテーマになります。しかし、日本人にはほとんど馴染みがない考え方です。西欧のある種の思想に汚染されていなければ、日本人が進歩主義に陥ることはないでしょう。
 近代を超克するという試みにおいて、日本人は進歩主義には立ちません。

近代を超克する方法

 最後に、簡単にまとめておきます。
 一つ目、政治においてデモクラシー(民主主義、民衆政治)を否定し、それに代わるものとして混合政体を提示しました。二つ目、思想においてリベラリズム(自由主義)を否定し、それに代わるものとして日本思想を提示しました。西欧思想の文脈においては、アリストテレス的な道徳伝統を挙げることができます。三つ目、経済においてキャピタリズム(資本主義)を否定し、それに代わるものとして労資協調経済を提示しました。そして、西欧的な進歩主義を否定し、そこに立たないことを宣言しました。
 ここにおいて、近代を超克しました。近代は終焉しました。近代の思想と決別しました。

近代を超克した後で

 1942年、昭和十七年七月に開催された「近代の超克」の問題意識を受け継ぎ、近代を超克することについて考えてきました。
 その結果、近代の思想と訣別するための論理的な答えにたどり着きました。大げさでも何でもなく、「近代を超克」することのすべての答えは、西欧哲学を参照しつつ、日本思想史を丁寧にたどることで見つけることができたのです。
 近代の思想と訣別した我々は、もはや近代的な価値観を持ち出すことができません。それは、普遍的に妥当する思想などないということを、改めて確認する営みでした。そのため我々は、これからも試行錯誤していかなければならないのです。
 それは大変なことですが、同時にとてもやりがいのあることでもあります。すでに用意された価値観(それは間違っていたわけですが)に、ただ従うだけの人生にどれほどの意味があるのでしょうか?
 我々は様々な要因の条件や状況に応じて、適宜何が正しいかを決めていかなければならないのです。間違っていた歪(いびつ)な歴史の完成は解体され、我々は先人たちと同じように歴史を紡ぎ続けることになります。
 そこで、人々は、それぞれに物語を紡ぎ出すのです。これは、そんな、何てことのない当たり前の物語なのです。

あとがき

 長く続きました「近代を超克する」シリーズは、今回で終わりです。ここまで読んでくださった方々に感謝いたします。


※本連載の一覧はコチラをご覧ください。

西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
ウェブサイト「日本式論(http://nihonshiki.sakura.ne.jp/)」を運営中です。

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近代を超克する
聖魔書
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ナショナリズム論

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コメント

    • 小作
    • 2016年 3月 30日

    カール・レーヴィットは著書「ヨーロッパのニヒリズム」の日本の読者へ向けたあとがきのなかで、西洋思想を無邪気に皮相に学び、それに日本思想を併置することであたかも簡単に西洋思想を凌駕できるかのごとく思っている当時の日本人の思想態度を痛烈に批判した。
    この「近代を超克する」と題された連載は、70年前のレーヴィットの批判がそのまま当てはまる皮相な西洋批判である・・・

    とここまで書いたが、訂正する。
    この連載の筆者と戦前の日本人を同じと評しては、戦前の日本人に対して失礼である。

    この連載がつまらないのは、もっと低い次元の問題、筆者の思想家との対話能力の欠如だろう。
    思想家と対話する。思想家と真摯に向き合い、時代が変われど変わらない普遍的な問題意識をとりだし、換骨奪胎する。筆者はそれをしないのかできないのか、「外に立つ」などとのたまって外から座布団を投げるような批判しかしていない。
    それを象徴しているのが、文章構成のアンバランスさだ。ほとんどの章で、思想家の「説明」「検討」「結論」のうち「説明」が圧倒的に分量を占め、短い「検討」のうち、突然(乱暴な)「結論」が来る。
    文章に正しい構成などないが、それにしてもこの「検討」の少なさは異様である。「検討」はすなわち思想との対話である。それが少ないということは、筆者が思想家との対話を軽んじ、一方的な批判を加えているだけなのを傍証している。

    「ここにおいて、近代を超克しました。近代は終焉しました。近代の思想と決別しました。」と筆者はいう。
    もし本当に近代が超克できたのなら、それは偉大なことであり、この筆者は偉大な人物に違いない。
    だが残念ながら近代を超克したのは彼の頭の中の世界においてだけであり、筆者が偉大なのも彼の頭の中の世界に限られている。

    以下蛇足だが、出版社に勤める編集者として一言述べておく。
    筆者は本を出版することが目標らしいが、もっと文章を書く練習をしたほうがよい。

    編集者として、下手な文章はかなり読んできたが、だいたい3つに分類できる。
    1、短すぎて説明不足な文章
    2、長すぎて説明過剰な文章
    3、長いうえに説明不足な文章

    1は正確さがかけるが、なんとなくいいたいことはわかるし、読むのに時間がとられないので多少まし。
    2は読むのに時間がかかってやっかいだが、推敲して短くしていけばよい文章になる可能性がある。
    3は一番やっかい。長いくせに意味不明で途中で読む気をなくす。
    この文章は典型的に3。文章もあれだが、全体の構成も無駄に長い。「自分はこんなに本を読んでるんだすごいだろう」とばかりに、あらゆる思想家について言及して、結論は貧弱そのもの。

    本を出版したければ自費出版をすればいい。
    百田尚樹が好きらしいが、「夢を売る男」を読むことを勧める。
    思想家ごっこは終わりにしてください。

    •  小作さん、コメントありがとうございます。下記、回答します。

      【自称編集者?】
       まず最初に、ここをはっきりさせてください。

      > 以下蛇足だが、出版社に勤める編集者として一言述べておく。

       どうやら小作さんは、出版社に勤めるプロの編集者のようです。私から持ち込みをしたわけでもないのに、勝手にプロの編集者が批評してくれるとはありがたいことです。
       ただ、プロの編集者であるなら身分は明らかにできるでしょう。社名と本名を明かして、正々堂々と批判してもらえませんか? 「出版社に勤める編集者」が、匿名で他社(ASREAD)の執筆者を非難するというのは、卑劣な行為だとみなされても仕方ないでしょう?
       また、社名と本名に加え、できれば担当した著作なども紹介していただきたいです。

      【権威を利用した批判について】
       では、批判について個別に検討します。まずは、冒頭部分から。

      > カール・レーヴィットは著書「ヨーロッパのニヒリズム」の日本の読者へ向けたあとがきのなかで、西洋思想を無邪気に皮相に学び、それに日本思想を併置することであたかも簡単に西洋思想を凌駕できるかのごとく思っている当時の日本人の思想態度を痛烈に批判した。
      > この「近代を超克する」と題された連載は、70年前のレーヴィットの批判がそのまま当てはまる皮相な西洋批判である・・・

       この論述からは、レーヴィットが当時の日本人の思想態度を批判したことはうかがえますが、その批判が妥当するかどうかは分かりません。内容を確認しようにも、『ヨーロッパのニヒリズム』は絶版のようです。論拠を示さずに、レーヴィットという権威を利用して批判するやり口は、きわめて不誠実だと感じられます。
       批判の論拠が示されているなら、その内容について吟味ができますが、これではレーヴィット信者ではない限りはだまされないでしょう。そもそも私は『近代を超克する』で、レーヴィットと同格かそれ以上の権威を遠慮なく批判しているのですから、持ち出すなら権威者ではなく透徹な論理にしてください。小作さんは、恥ずかしいことをしていると思いますよ。

      【論者の差について】
       続いて、的外れな記述について。

      > とここまで書いたが、訂正する。
      > この連載の筆者と戦前の日本人を同じと評しては、戦前の日本人に対して失礼である。

       同意しますよ。私と戦前の日本人では、戦前の日本人の方が立派だと思いますし。
       ただ、私が勝手に戦前の日本人と自分を同格に置いていると勘違いする人がいては困りますから、一応指摘しておきます。
       ここでは、小作さんが勝手に私と戦前の日本人を合わせて(レーヴィットの権威を利用して)批判し、その後に、勝手に私は戦前の日本人と同格ではないと論じているだけです。自作自演というやつですね。嫌なことしますね。

      【思想家との対話について】
       さらに、的外れな記述について。

      > この連載がつまらないのは、もっと低い次元の問題、筆者の思想家との対話能力の欠如だろう。

       思想家と対話するような論述形式はありえます。そういったタイプの論述は、文章がかなり長くなりがちです。
      ただ、『近代を超克する』は対話形式ではなく論理の抽出と検討に重点を置いています。ですから、これも的外れな批判です。
       分かりやすく極論で言うなら、厳密な科学論文に対し、感情表現が希薄だといった批判を受けても困るでしょう? そういうことです。
       また、つまらないか面白いかは、読者が勝手に判断すればよい問題です。ただし、思想家との対話能力の欠如をつまらない理由として挙げているのは、恣意的な意見であり、とても編集者の言葉とは思えませんね。
       続いて、明らかに私の言っていることを理解せずに批判している箇所です。

      > 思想家と対話する。
      > 思想家と真摯に向き合い、時代が変われど変わらない普遍的な問題意識をとりだし、換骨奪胎する。
      > 筆者はそれをしないのかできないのか、「外に立つ」などとのたまって外から座布団を投げるような批判しかしていない。

       まず、『近代を超克する』では普遍的と思われている近代的な価値観を批判しているのですから、「普遍的な問題意識をとりだし、換骨奪胎」しないとかできないとか非難されても困ります。また、「外に立つ」とわざわざ言っているのに、それに対して「外から座布団を投げるような批判しかしていない」と言われても困ります。これらの記述から、小作さんは、私が論じている内容をまるで理解できていないことが分かります。
       そもそも論理とは、何らかの前提を置き、それらを何らかの推論規則で演繹し、結論を導くものです。それなりに頭の良い人は、演繹を妥当に展開しますから、同じ前提からは同じ結論が導かれることになります。ですから、思想的に深いレベルで考えるには、前提の妥当性を問うことが必要になります。私は、近代的な価値観の土俵に立ってその論理を説明し、その後に、その前提を共有した土俵の外に出てから、別の前提を提示し、土俵内の前提を批判しているのです。だから、わざわざ外に立って論じていると自らの手のうちをさらしているのです。
       ですから、ここで有効な反論を展開するためには、土俵の内と外を含んだ土台で、内と外の妥当性を評価することが必要なのです。この構造が分かっていないという点で、小作さんは編集者として明らかに低レベルだと言わざるをえません。

      【ともかく具体的に書いてください】
       あまりに、的外れな批判ばかりなので疲れてきましたが、もう少し頑張って論じてみます。

      > それを象徴しているのが、文章構成のアンバランスさだ。
      > ほとんどの章で、思想家の「説明」「検討」「結論」のうち「説明」が圧倒的に分量を占め、短い「検討」のうち、突然(乱暴な)「結論」が来る。

       結論が乱暴だと言うなら、具体的な箇所で間違いを指摘してください。コメントの全体に言えることですが、抽象的な批判というかイチャモンばかりです。具体的な箇所を取り上げ、論理的な間違いを指摘してください。

      > 文章に正しい構成などないが、それにしてもこの「検討」の少なさは異様である。
      > 「検討」はすなわち思想との対話である。
      > それが少ないということは、筆者が思想家との対話を軽んじ、一方的な批判を加えているだけなのを傍証している。

       比率として検討の文章量が少ないことはその通りですが、編集者なら少ないことによる明確な間違いを論理的に指摘してください。「少ない」ということを論拠に、軽んじていることを傍証しているというのは、論理に飛躍があります。そもそも小作さん自身が、下手な文章として次の3つを挙げています。

      > 1、短すぎて説明不足な文章
      > 2、長すぎて説明過剰な文章
      > 3、長いうえに説明不足な文章

       この分類の仕方も雑だと感じますが、文章量の多い少ないが重要なのではなく、不足や過剰の具体的な指摘が必須なのは明白でしょう。

      【ヘタな文章について】
       小作さんから私の文章は下手だと指摘されていますが、それはその通りなので今後も勉強していくしかないですね。
       ちなみに小作さんの文章ですが、この短いコメントの中でも言葉が混乱して非常に読みにくかったです。

      > ほとんどの章で、思想家の「説明」「検討」「結論」のうち「説明」が圧倒的に分量を占め、短い「検討」のうち、突然(乱暴な)「結論」が来る。

      > 3、長いうえに説明不足な文章

      > この文章は典型的に3。文章もあれだが、全体の構成も無駄に長い。
      > 「自分はこんなに本を読んでるんだすごいだろう」とばかりに、あらゆる思想家について言及して、結論は貧弱そのもの。

       ええと、説明量が多い説明不足な文章という批判でしょうか? 「説明不足な文章」の「説明」が、「説明」「検討」「結論」の「説明」なのか、「結論」の説明が足りないということなのか、意味が一意に確定できず曖昧で分かりづらいです。
       しかもこれらの文が、私の文章が下手だという指摘で言っているものなので、どこから突っ込んでよいのか私には手の負えないしろものです。
       私の文章が下手なのは私自身が分かっていますので、抽象論や意味不明な根拠ではなく、具体的で論理的な指摘をお願いします。編集者なんでしょ?

      【卑劣な印象操作について】
       少なくとも、私の書いたものに準拠して批判してほしいものです。

      > だが残念ながら近代を超克したのは彼の頭の中の世界においてだけであり、筆者が偉大なのも彼の頭の中の世界に限られている。

       近代を超克したのが私の頭の中の世界においてだけというなら、それを論証してください。私の記事の内容で、いくつか論理的な間違いを具体的に示せば足る話でしょう。卑劣な印象操作は止めてください。
       また、私は自分が偉大だなどと言っていませんし、思ってもいません。私が偉大なのも私の頭の中の世界に限られるというのは、明らかに私が言っていないことを勝手にでっち上げている卑劣な行為です。

      【プロなら正々堂々としてください】
       小作さんは最後に、

      > 思想家ごっこは終わりにしてください。

       と私に言っています。私のしていることが思想ごっこだとしても、それを終わりにしろと言われる筋合いはありません。それよりも、そちらこそ編集者ごっこは終わりにしたらどうでしょうか?
       繰り返しになりますが、「出版社に勤める編集者」が、匿名で根拠を示さない批判をすることは卑劣でしょう? まずは出版社と名前をさらしてから、正々堂々とやりあいましょう。
       私の予測ですが、小作さんが正体を明かす可能性は低いと思います。他人をけしかけたり、別人になりすまして卑劣な行為を繰り返す可能性の方が高いでしょう。できれば、私のこの予測が外れれば良いのですが。

    • 小作
    • 2016年 4月 06日

    あらかじめ書いておけばいい。
    「アスリードには匿名の著者もいますが、私の記事については匿名での批判は一切受け付けません。ただし賞賛のコメントは匿名でも結構です」と。

    そういうことですよね?

    まあしかし、賞賛のコメントなんて来るんですかねぇ?

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