近代を超克する(26)対リベラリズム[9]ハイエク

「近代の超克」特集ページ

 ハイエク(Friedrich August von Hayek, 1899~1992)は、オーストリアの経済学者です。著作である『隷従への道』・『自由の条件』・『法と立法と自由』・『致命的な思いあがり』などから、ハイエクの自由についての考えを知ることができます。

ハイエクの自由

 ハイエクは、自由を強制がないことや、抑制と拘束がないこととして定義しています。ハイエクの自由主義は、強制を最小にすることであり、個人への強制は一般的福祉または公共善に貢献する場合にのみ許容されています。ハイエクの擁護する自由は、義務を課さずに行為を禁止することから、消極的なものです。その理由は、どんな人間や組織も、社会の活動全体の秩序を決定する無数の特定事実について常に無知だからだと語られています。
 ハイエクの自由は、差し引きによって、悪に向かう力よりも善に向かう力を多く解放するという信念に基づいています。そのため、自由が大部分の道徳的価値の源泉であり条件であるとされています。経済の分野における自由については、新しい状態にたいして必要な調整をどうにかしてもたらすであろうと想定されています。

ハイエクの法の支配

 ハイエクの自由主義は、法がどうあるべきかについての主義であるため、法の支配および法の前の平等と結びついています。法の支配とは、法がどうあるべきかに関する超-法的原則のことであり、立法から全ての特権を排除し、立法を一般規則の種類のものに限定します。法律は前もって定められた場合にのみ国家の強制権が行使されるため、どのように行使されるかが予見できると考えられています。法の前の平等は、政府による強制が、全員に等しく適用可能である同一な抽象的な規則によって制限されるという条件のことです。この機会の平等は、必ず結果の不平等を招くとされています。

ハイエクの進歩観

 ハイエクは自由主義について、十七世紀のイギリスより以前に遡ることはほとんど不可能と述べています。その自由の維持と保護はイギリスの指導理念となり、その制度と伝統は文明世界にとっての模範となったと考えられています。その自由はアメリカにも存在しているため、ハイエクはイギリスやアメリカをして自由と公正、寛大と独立の国とした伝統に対する揺るがぬ信念を掲げています。この自由主義は、いかなる国境をも考慮しないとハイエクは考えています。自由の究極の目的は、人間がその祖先に優越する能力の拡大だとされています。
 ハイエクは、進歩的である人々を説得し、共通の抽象的な行動ルールを拡張し、普遍的でないルールから義務的性格を取り除くことによって、全人類を単一の社会に統合できるような普遍的な平和的秩序に近づけると言います。有効な行為秩序をもたらすルールを取り入れた集団が、有効性の劣る秩序をもつ他の集団より優位に立つ傾向があると考えられているからです。社会的地位がくじ引きによって決まるなら、自分の子供をそこにおきたいと考える社会が、最善の社会だとハイエクは述べています。

ハイエクの検討

 以上の見解を考慮し、ハイエクの自由について考えてみます。
 まず、強制を「適切」にするのではなく、「最小」にするということは中庸を外れています。短期的には余計に思われても長期的には有効に働くような強制に対し、「適切」では残したり限定的に停止したりするのに対し、「最小」では排除する傾向があります。短期的には有効に思われても、長期的には有害に働く可能性が高いのが自由という概念の怖いところなのです。短期的には有効性の劣る秩序が、長期的には安定化をもたらすということも大いにありえる話なのです。期間をどのくらいに設定するか、どのような状況を想定するかによって評価は変化します。例えば、経済的効率性と社会的安全性はトレードオフの関係が発生するため、「適切」では両者の間でバランスを取りますが、「最小」では効率性を追求して安全がおろそかになるといった事態を招きます。
 また、私たちは無知であるため、「~すべし」という義務を誤って定めてしまうように、「~することなかれ」という禁止も誤って定めてしまうことがあります。義務は間違えるけれど、禁止は間違えないなどということはありえないのです。そのため、義務の間違いを禁止によって、禁止の間違いを義務によって掣肘する必要があるのです。

ハイエクの致命的な思いあがり

 私たちには完全な知識がないからこそ、特権が有害に働くだけではなく、社会の安定化にとって有効に働くこともあると考えるべきでしょう。ですから、すべての特権を否定してはならないのです。世の中の安定は、一般的で抽象的なルールと、個別的で具体的なルールの間において見いだされるものなのです。私は、私たちには完全な知識がないからこそ、一般的で抽象的なルールが完全になることはなく、個別的で具体的なルールで掣肘する必要があると思うのです。一般的で抽象的なルールを定め、個別的で具体的な状況に適用するとき、そこに解釈が入り込みます。実際の現実においては、この解釈によって、いくらでもルールの悪用が可能になるのです。
 法の前の平等については、その機会の平等が結果の不平等を招き、結果の不平等が機会の平等そのものを切り崩していきます。機会の平等を唱えるのも、結果の平等を唱えるのも、ともにまちがっています。機会の平等と不平等、および結果の平等と不平等の間で調整を行うこと、それこそが公正と呼ばれるものの役割なのです。
 ハイエクとは、十七世紀イギリスに発生した自由主義は、いかなる国境をも考慮しないで全人類を単一の社会に統合できる、そう考えている人なのです。ハイエクとは、マルクス主義という名の全体主義を批判した、自由主義という名の全体主義者なのです。
 異なる文化圏は、それぞれ自身の社会を最善と感じる傾向があるため、ハイエクのくじ引き案は成り立ちません。ただしハイエクは、イギリスとアメリカの伝統が考える社会が最善なのだと言うのでしょう。これは、致命的な思いあがりです。


※第27回「近代を超克する(27)対リベラリズム[10]リベラリズムを超克する」はコチラ
※本連載の一覧はコチラをご覧ください。

西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
ウェブサイト「日本式論(http://nihonshiki.sakura.ne.jp/)」を運営中です。

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