私徳と公徳のジレンマについて
- 2013/12/5
- 社会
- 中野剛志, 福沢諭吉, 藤井聡
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京都大学教授で現内閣参与の藤井聡さんの運営するインターネット上の動画コンテンツである土木チャンネルに、評論家で現経産省官僚の中野剛志さんが出演して、二人で対談をしていたのですが、非常に興味深い内容だったので、今回はその内容について取り上げたいと思います。
中野剛志さんは去年京都大学から経産省に戻って以降、ネットメディアの露出は控えていたのですが、最近になってまた度々ネット上の動画コンテンツにも出演するようになってきました。本業の経産省の仕事に執筆、講演活動と、ご多忙な中での活動は、本当に大変かと思いますが、中野剛志ファンの私としては本当に嬉しい限りであります。
「本物」よりも「新奇なもの」が評価される時代
この対談の内容は、日本国内の公共事業バッシングに関する問題が中心になっています。90年代以降、国内世論では、いわれのない公共事業バッシングが横行していました。
それに対して土木関係の研究者や事業従事者は真っ向から対立するのではなく、地道に自身の仕事をコツコツ行い、しっかりと費用対効果を示し、個々の公共事業の有効性を証明し、真面目に良い橋や建物を作っていけばきっといつか世間は認めてくれるだろうと信じて、公共事業バッシングに対して有効な反論をしてこなかった、という問題を最初に取り上げています。
しかし、まあ、このようなことは土木の問題に限らず、往々にして起こりうることなのだろうと思います。学者でいえば、大学内や学会内で真面目に研究してコツコツ成果を上げていく人間よりも、タブロイド誌やサブカル言論誌などに寄稿したり、ネットやTVでワーワー騒いでいるような人物がなんとなく評価されたり、ビジネスの世界でも、地道にコツコツ仕事をして信用を築き上げた会社よりも、むしろホリエモンや現在でいえば与沢翼などの「こんなユニークな手法によって、一晩で巨万の富を得ました!!」という山師のような男がもてはやされる。
もっと身近な例でいえば、地道にコツコツと自分の仕事をする人間よりも、口八丁でペラペラと色んなアイディアを出して、一見立派な資料を用意して分かりやすいプレゼンで自分の発想のユニークさを売り込むような人間が評価されたり、学生であれば、地道にアルバイトをしながら学業に精を出す学生よりも、親の金を使って大学に入って、適当に授業に出席しながら、サークル活動や、企業のインターンなどの活動にアレコレ手を出すような学生が評価されるようなそういった傾向は一定程度どこにでも見られるのではないかと思います(もっともまともな感覚の持ち主であれば、このような人間を下らない、取るに足らない人間だとしっかり判断できるでしょうが)。
結局のところ、社会がおかしな状況になっている、もっといえば、社会的に広く共有されている評価尺度が歪んでいれば、本来なら評価されるべき人間が軽んじられ、逆に本来軽んじられ、軽蔑されるべき人間が評価されるなどという現象も起きてくるのでしょう。
コメント
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前回の投稿から拝見させていただいております!
まったく違う次元でのお話ですが、、日本のロックバンド、エレファントカシマシの「ガストロンジャー」という曲の歌詞を思い出しました。(三島由紀夫のくだりなど特に)
私以外の中年のエレカシファンにも共感していただけそうな内容です。
「日本の」ロックバンドの王道を歩むエレカシの音楽と、根っこの部分でつながっている気がしてなりません。
(恥ずかしながら、、)私の個人的な趣味を晒したようですが、誰か1人の心に引っ掛かり、公徳へ繋がっていけばと思い勇気を出してコメントさせていただきました。