お金や異性以上の価値とは何か?
- 2013/12/5
- 社会
- 2 comments
三橋貴明さんや中野剛志さん、それから上念司さん等々の影響からか、数年前から、保守系の言論界では経済問題について語ることがある種のブームになっています。保守系の言論メディアを自称するチャンネル桜という番組の討論でも経済討論の回は非常に人気が高いことからも、この傾向は確認できるでしょう。
かくいう私も、実は、もともと経済評論家の三橋貴明さんのファンであり、三橋さんの本やブログ、あるいはネット上の動画などを見て政治的な問題に関心を持つようになった人間ですので、経済問題について考えたり議論したりするのは非常に面白いと思っています。
金銭問題に拘泥する議論
経済の問題は私たち一般庶民の生活と直結する問題ですし、特に、現在は80年前の大恐慌以来の経済危機の時代だと言われており、この経済危機に各国がどのように対処するのかによって、世界の勢力図がガラッと変わるかもしれないという一大転換期でもあるがゆえに、言論の世界で経済問題に関する議論が白熱するのもうなずける話だとは思うわけです。
しかし、一方で私は保守を自称する人々が、あまりにも経済問題、つまりは金銭の問題に関する議論に拘泥することに対し、どこかで違和感を覚えるようになってきていました。
この違和感は、民主党政権が倒れ、自民党が与党の座に戻り安倍首相が誕生した時点でより明確に意識されるようになります。それまで、民主党政権下では、間違った経済政策が押し進められ、デフレを長期化、深刻化させていく状況で、なんとかデフレを脱却して経済を正常な状態に戻すことが喫緊の課題であったのですが、その後安倍政権が成立し、それなりに正しい経済政策とデフレ脱却への道筋を示しました。そうして、どうやらデフレ脱却し、国土強靭化への投資もそれなりに行われるのであろうと思ったときのことです。私はこのような認識の元わずかな安堵感とともに、同時に次のような不安に襲われました。
「今の日本がデフレを脱却し、再び経済成長を成し遂げれば、あの下品で馬鹿げた80年代のバブルの時代に舞い戻るだけではないか?」
という不安です。
かの三島由紀夫が割腹自殺した年が1970年。つまり、三島が
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」
と吐露した1970年あたりに日本は高度経済成長を遂げており、生活が豊かになることで皆が明日への希望を抱いていました。そんな中で三島は、もはや日本に希望は無いと言い残し、絶望の中、割腹自殺を決行しました。
その後、まさに三島の予言通りといったところでしょうか、80年代になり日本はバブルの絶頂期に至り、まさに少しばかり思慮の足りない、浮かれた連中が、我々こそ最高なのだと確信し、ジャパンアズナンバーワンと叫んでいたわけです。
もちろん、このような多少馬鹿げていても、ある意味では非常に恵まれた時代に青春時代を過ごした世代が羨ましくないかといえば、そんなことはなく、やはり私もこのような浮かれた時代に青春を過ごしていれば、こんな暗く重苦しい文章をつらつらと書き連ねるような青年にならずに済んだのかなと思うと、やはり自分は不幸な時代に生まれ育った世代なのかなと思わないこともありません(笑)
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。