からっぽな経済大国に跋扈するノー天気な連中
しかし、これは先ほどの不安と直結する問題なのかもしれませんが、安倍首相が力強い経済の回復を宣言したとき、ふと、この期再びバブルと同じような時代がやってくるのかもしれないと思ったとき、その浮かれた気分に飲み込まれたとき、果たして、自分が価値あると信じてきた思索や苦悩は全て無に期してしまうのではないか?という漠然とした不安感をも覚えたのです。
果たして、皆が浮き足立って、株でどれだけ儲けられるか?土地の投機でどれだけ利益を出せるか?と考え、クラブで踊り狂って、皆で楽しくワイワイパーティーをやっている時に、一人、「日本の伝統的な精神風土はどうなってしまうのか?」「果たして、現代のような浮かれたノー天気な連中が偉そうにしてる日本の現状を、日本の明日を信じて戦った幕末の志士や、特攻隊の隊員が見たらどう思うか?」などと思索にふけることにどれほどの価値があるでしょうか?また、どれだけ価値があると信じることが出来るでしょうか?
一体、日本の行く末はどうなってしまうのか?5年後の世界はどうなっているのだろうか?などと皆が考えているような時代であれば、そのような問いにいくばくかの価値を見出すことが出来るでしょうし、またそのようなややこしい小難しい問題に耳を傾けてくれる人もいるでしょう。
しかし、皆がノー天気に、浮かれて馬鹿騒ぎしている時に、「お前らは、そんなことでいいのか?!」などとお説教を垂れても、誰も聞きたがらないでしょう、せいぜい、この楽しい時代のノリについていけない可哀想な人間だなどと思われるのがオチです。
最初に掲げた不安や、違和感に対する答えをいうならば、つまり、現在の状況で再び日本の経済が良くなったところで、(もちろん、どれが非常に重要であることは認めつつも)せいぜい三島の言う、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国に戻るだけであろうということです。
これで結論ということににしたいところですが、ここまで書いて、
「なんだか、悲観的な野郎だな。じゃあ、結局どうすればいいんだよ?」
という声が聞こえてきそうな気がするので(笑)、では、どうすればいいのかという私なりの考えを、最後に述べたいと思います。
三島由紀夫は自殺をする際、
「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」
と叫びました。
では、果たして生命以上の価値とは具体的になんなのでしょう?となると、実のところ、それを具体的に「こうだ!!」と指し示すことはできません。ウィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と言っていますが、まさにこの生命以上の価値とはその語りえぬものに該当するのだと私自身は思っています。
もちろん、宗教国家であれば、たとえば、「それは、○○教の教えだ!」と宗教に丸投げすることも可能かもしれませんが、残念なことに日本は宗教国家ではなく、その答えを宗教にのみ求めることは不可能なのです。しかし、ウィトゲンシュタインは、また「感じ得ることについては、仮にそれが語り得ぬものであったとしても、物語り、指し示す事は可能なのだ」とも述べています。なので、この問題を私なりに頑張って指し示してみたいと思います。
この生命以上の価値、私の場合は、現在金銭至上主義的な価値観を問題にしていますので、金銭やビジネス以上の価値と言い換えさせてもらいますが、それが一体なんなのか?と考える時、逆説的な意味において非常に面白い問題提起が、じつはその金銭至上主義的な価値観のある意味で際に存在する自己啓発の教えの中にあります。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。