お金が神に変わった?
実は、私は学生時代、自己啓発セミナーにハマっていた時期があり、そのようなセミナーや勉強会にも顔を出していた時期がありました。その自己啓発セミナーのセミナー後の懇親会でそのセミナーの講師がこのような事を言っているのを聞いたことがあります。
「人生の悩みっていうのは、お金の悩みと異性の悩みさえ解決すればほとんど全てなくなるんだよ」
と・・・。まさに、これこそ私が死ぬほど嫌いな価値観であり、なんとも人間の尊厳もクソもないような問題認識、人生観であると思うのですが、それでは、この発言に対してどのよう具体的に反論するかとなると、実は思った以上に難しいことに気づきます。どれだけ、普段、文化とは何か?良き伝統とは何か?人間の尊厳とは何か?などと考えていたとしても、案外、このようなセリフを聞くと、心のどこかで「ああ、確かにそうかもしれない・・・」と思ってしまうのではないでしょうか?
また、別の自己啓発の話を持ち出すと、脳機能学者を自称する苫米地英人氏は、『宗教の秘密 世界を意のままに操るカラクリの正体』という本で面白い問題提起をしています。いわく、「現代社会というものは、伝統的な宗教の教えの価値がどんどん軽視され、薄れていく中で、お金が神に代わった。現代人のほとんどは、お金教の信者である」と説明し、さらに、このような「お金教」的な価値の洗脳から脱却しなければならないと述べています。
「お金教」から脱却するだけでは、ニヒリズムに堕する
確かに、ここまでの認識は、私と全く同じです。しかし、問題なのは(お金教の洗脳からの脱却を唱える苫米地氏自身が、異常なほどのお金への執着の持ち主であるという点はさておいて)氏が、お金にも伝統的な宗教にも代わる別の価値観を全く提示出来ていないという点です。現代人が、ある種の価値観に侵されている、このような価値観から脱却しなければならないというような氏の主張にはうなずける点も多々ありますが、脱洗脳、あるいは特定の価値観からの脱却は、それのみでは容易にニヒリズムの支配に堕するのではないでしょうか?
では、金銭以上の価値とは何か?という問題に再び戻ってくるのでありますが、結局これは、先ほど言ったように、「語り得ぬもの」であるのです。そして、それについて説明できるとしたら「物語り、指し示す事」つまり、示唆することしか出来ないのです。
たとえば、前回の記事(公徳と私徳のジレンマ)で書いたような、公徳と私徳の問題、三島由紀夫の苦悩、福沢諭吉の痩せ我慢の説といったそれぞれの物語について語る中で、指し示し、示唆する以上のことは不可能なのです。そういった意味で、私がしばしば書いている現代社会に対する批判のそのものが、このお金や異性以上の価値というものを物語るための非常に長い説明。「金銭以上の価値とは何か?」という問に対する恐ろしく長くて回りくどい回答なのです。
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