※この記事は月刊WiLL 2014年12月号に掲載されています。他の記事も読むにはコチラ
ノーベル賞に喜ぶ
「いい顔してるわ」と、その患者さん(女性)は言った。テレビのニュースが、今年のノーベル物理学賞を受賞した三人の日本人物理学者(赤崎勇、天野浩、中村修二の三氏)の一人、天野浩名古屋大学教授の表情を映し出している時の出来事だった。私の病院の夕方の病棟で、テレビのニュースが今年のノーベル物理学賞を受賞した三氏を取り上げていたのだ。
そう言えば、と私は思った。これまでノーベル賞を受賞した日本人科学者の多くは皆、いい顔をしていた、と。
人間の精神生活は、その人の顔に出る。「自分の顔に責任を持て」と言ったのはリンカーンだったが、人間の顔は、その人間が生きてきた人生の道程を恐ろしいまでに映し出す精神の鏡である。天野氏をはじめとする今年のノーベル賞受賞者たちも、例外ではない。
それぞれの受賞者の生い立ちと生きざまは様々だが、テレビのニュースを見ながら、私は一人ひとりのこれまでの人生が、それぞれの顔に映し出されているような気持ちがした。そして、受賞者の一人である天野浩氏のこれまでの生きざまを知った時、私はその患者さん(女性)の炯眼に驚かされたのだった。
ノーベル賞について、いろいろ議論もあることは承知している。ノーベル賞受賞者が科学界で過度に政治力を持つことの弊害など、いろいろな議論があることは、一臨床医に過ぎない私も知っている。また本来、個人やグループに対して与えられる賞であるノーベル賞が、国に対する賞のように受け止められ、過剰なナショナリズムに結び付くことも良いことだとは思わない。とはいっても、日本人科学者がノーベル賞を受賞することは嬉しい。
広島の土砂災害や神戸での幼女誘拐殺人事件、そして御嶽山の噴火によるあまりにも多くの人々の死といった暗く、悲しいニュースばかりが続いたあとだっただけに、今年のノーベル物理学賞が三人の日本人物理学者に与えられた。というニュースは、私の心に灯りをともしてくれる朗報であった。
しかし、である。日本人物理学者たちがノーベル賞を受賞したというこの嬉しいニュースを聞きながらも、実は私は日本の科学の行く末が心配でならなかったのだ。
科学教育の暗い行く末
それは、日本の大学や研究機関の研究体制やお金の問題も大いに語る必要があるのだが、それ以上に私が心配でならないのは、日本の学校教育における科学教育の水準の低下、劣化である。
科学教育のレベルの低下は、恐ろしいレベルに達している。二〇〇〇年代に始められたあの「ゆとり教育」は、そのあまりの内容の酷さから最近、やっと見直され、一定の是正を加えられた。しかし、もしかするともうそんな改善すら、「手遅れなのではないか?」と思うほど、日本の学校教育における科学教育の水準の低下は深刻なのである。
日本は一九八〇年代前半から、理科の授業を削り続けてきた。特に物理を、である。その結果、一九九〇年代には次のような記事が書かれるところまで、日本の学校の科学教育は空洞化してしまった。
「もう減らない、と安心していいんですか、と聞いたら『だめです』というんですね」
日本物理学会などが昨年末、文部省の教科調査官を招いて開いた物理教育に関する懇談会の席上、国際基督教大学高校で物理を教える滝川洋二さんが、理科の授業時間について質問したところ、こんな答えが返ってきた。
学習指導要領が定める理科の授業時間数は、「ゆとりある学校」を掲げた八〇年代初めの改訂で小学校高学年、中学校で削減された〉
〈今回の改訂で、九二年度から小学校一、二年の理科は、社会とともに姿を消した。「体験学習」を特徴とした「生活科」新設のしわよせだ。
高校では理科の必修科目が減った。「多様化」に合わせ選択の幅が広がったためだ。文系を中心に物理を履修する生徒は激減しそうだ。
新指導要領が実施されたのは一年生だけだが、すでに物理の先生が余って化学や生物に「転職」せざるをえない学校もある。
滝川さんは言う。
「これ以上減らされたら、いくら実験を工夫してもできません。理科嫌いにもならないが、好きにもならない。『昔は理科っていうのがあったんだけどね』なんてことになるのがこわい」(大庭牧子「理科離れ──先生が脅える『理科がまた減る恐怖』/『AERA』一九九四年八月八日号より)
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
9月からASREAD投稿者として参加させていただいている評論家の小浜逸郎と申します。
このたびの記事に全面的に賛意を表します。日頃うすうす考えていたことを明快に説いていただき、たいへん心強く思いました。
母国語で物理用語を編み出した明治の先人たちの血のにじむような努力を、平成の教育が破壊していると思うと、許すことができない気分になります。
ゆとり教育が推進されていた当時、これはえらいことになったと感じて、ささやかな反対の論陣を張ったのですが、現在もなおその弊害がそのまま残っているのですね。本当に嘆かわしいことです。
この困った潮流に対して少しでも抵抗を試みようと、最近、ごく少数の仲間に呼びかけて「ガリレイの会」なるものを始めました。素人オヤジが集まって、かつて学んだ高校理科を復習していこうという試みです。おっしゃる通り、物理、特に力学は、自然がどんな姿をしているかを理解する基礎ですから、まずは力学から始めています。
これからもよろしくご鞭撻をお願いいたします。
● 科学教育を問うその前に
ご高説は良いのですが、西岡氏ご自身たちの行っていることは一体何なんでしょうか。複数のFacebookのグループを立ち上げて、他人の誹謗中傷を多々行ったりしてますよね。
議論を回避する教室?その前に西岡氏自身、それを否定する行動を行ってますよね。
SNSグループで「民主的に行うつもりはない」とか、挙げ句の果てには気に入らない人をグループから追い出して、「粛清」とかさらし者にしたり。自分たちの都合の悪い主張を封殺したりしている。香港出身の私としては科学教育を問う前にご自身の行動の是非を問うべきかと思います。ある種、怒りのようなものも感じます。