日本の科学教育は大丈夫か

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英語教育より大事なもの

 なるほど、英語教育は重要である。日本人の英語力が会話の面などで低いというのはたしかだろうし、故ライシャワー駐日アメリカ大使が生前繰り返し強調していたように、英語教育の在り方が日本の未来にとって重要であることには私も同感である。

 しかし、近年の「脱ゆとり教育」のなかで、物理学をはじめとする科学教育の再興にどれだけ熱心であるのか、私は疑問を抱いている。

 私はいま、科学教育の「再興」と書いた。この言葉を私が使うのには理由がある。それは、何でも新しいことをするのがいいと思っているフシがある日本の教育行政の担当者たちが、過去の日本の科学教育の素晴らしさを認識していないのではないか? と思えるからだ。

 昭和三十一年(一九五六年)に生まれ、日本の学校で教育を受けてきた者として、そして科学と科学史に関心を持ち続けてきた者として言いたい。私が受けた昭和の時代の日本の科学教育は素晴らしいものであった。

 まず何よりも、当時は学習の量が圧倒的に豊かであった。そのことが「詰め込み教育」と呼んで批判されることはたしかにあった。だが結論から言えば、私はそれは必要な分量であったと思う。

昔は文系も物理を学んだ

 その証拠に、全国の大学は高校で教える物理や数学が減った分、教養課程で新入生に多くのことを教えなければならなくなり、結局、苦労していると聞く。少なくとも理科系の学部では、高校で一定の分量の理科を学んでくれないと、専門教育が覚束ないのである。

 いまでも手元に置いている、私が高校時代に使った物理の教科書などを読み直すと、白黒の、紙質もいまほど良くはない物理の教科書が、実に広範な領域を扱っていたことに感嘆する。そして、それだけの分量の物理を、文科系に進む生徒を含めて日本中の高校生が学んだ。昭和の日本が、平成の日本よりも教育を大切にしていたことを感じるのである。

 内容のバランスも優れていた。たとえば、自然現象をとらえることの基本である力学に多くのページを割いている。熱力学の初歩を説明する部分では、統計力学の初歩までをも高校生に分かるような形で解説しており、教科書を執筆した人々の見識の深さを感じずにいられない。

 さらには、科学の学習には科学史を知ることが非常に重要だが、その点の記述も抜かりない。

 もちろん、問題点もあったが、昭和の時代に日本の小学校、中学校、高校で行われていた科学教育は素晴らしいものであったし、それが今日のノーベル賞受賞者の輩出の基盤であったことを、日本の文部官僚と政治家は認識するべきである。

 iPS細胞を発見した山中伸弥教授も、今回のノーベル物理学賞受賞者たちも、この昭和の時代の科学教育を受けた人々である。そのことを忘れて、ただ英語とタブレットだけを教育政策の目玉にしようとしている政府・文科省は間違っている。そのことを私は声を大にして言いたい。

 科学教育にはとにかく、教員と授業時間が必要である。だが、いまの日本の教育行政は、科学教育に時間と教員を投入しての国家百年の計よりも、とりあえず企業の即戦力になる人材の養成ばかりを考えているように私には見えてならない。

 科学研究においても、英語が重要であることはもちろんである。しかし、科学的思考の基礎を学ぶべき年代である小学生、中学生、高校生を英語漬け、タブレット漬けにして、肝心の科学教育に十分な力を入れようとしない日本の教育行政の在り方に、私は深い懸念を持つ。

議論を回避する教室

 そもそも、科学教育の基礎は国語教育だ。母国語で本を読み、文章を書き、自分の考えを述べて討論するといった能力こそは、科学教育の土台の土台である。したがって、科学教育を振興、強化するならば、まず最初にするべきことは、国語教育の充実である。

 日本人がノーベル賞を受賞すると、マスコミはしばしば科学教育の在り方を取り上げて論じるが、私はたとえば、テレビが科学教育の在り方を論じる時に、このことに触れているのを聴いたことがない。

 これまで私が見てきたことを記憶でいえば、マスコミが科学教育を取り上げる時には、授業における実験の大切さを強調することが多い。面白い実験を見せれば理科が好きな生徒たちが増えるだろう、という発想である。これは、ニュースを視覚的に伝えるテレビにおいて特に繰り返し強調されている話だ。

 しかし、実験を見せることが科学教育の強化なのか、と言われれば違う。たしかに、面白い実験を見せたりやらせたりすることは、子供に科学への興味を持たせる切っ掛けとして悪くはない。だがこれも、マスコミの、特にテレビのある種、お決まりのコメントであると私は思う。

 実験は科学の重要な手段である。しかし、実験とは面白いものばかりではない。つまらない作業を毎日、毎日、忍耐強く続ける精神力、忍耐力を要求するのが実験である。小学生に「見せる」実験など、実験という仕事のほんの一端でしかない。

 それよりももっと大切なものは考えることであり、討論(ディスカッション)をすることである。特に、ディスカッションをするということは科学の最も重要な側面のひとつであり、日本の科学教育にはこの部分を強化することこそが大切だと私は思う。

 日本の学校には、このディスカッションの訓練が非常に不足しているように思われる。これは理科に限ったことではなく、歴史をはじめとする社会科の授業でもそうで、生徒たちにいろいろな意見を言わせることを教師が回避しようとするからなのではないか? という気がする。

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西部邁

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コメント

  1. 9月からASREAD投稿者として参加させていただいている評論家の小浜逸郎と申します。
    このたびの記事に全面的に賛意を表します。日頃うすうす考えていたことを明快に説いていただき、たいへん心強く思いました。
    母国語で物理用語を編み出した明治の先人たちの血のにじむような努力を、平成の教育が破壊していると思うと、許すことができない気分になります。

    ゆとり教育が推進されていた当時、これはえらいことになったと感じて、ささやかな反対の論陣を張ったのですが、現在もなおその弊害がそのまま残っているのですね。本当に嘆かわしいことです。

    この困った潮流に対して少しでも抵抗を試みようと、最近、ごく少数の仲間に呼びかけて「ガリレイの会」なるものを始めました。素人オヤジが集まって、かつて学んだ高校理科を復習していこうという試みです。おっしゃる通り、物理、特に力学は、自然がどんな姿をしているかを理解する基礎ですから、まずは力学から始めています。

    これからもよろしくご鞭撻をお願いいたします。

    • 許康人
    • 2014年 12月 02日

    ● 科学教育を問うその前に
     ご高説は良いのですが、西岡氏ご自身たちの行っていることは一体何なんでしょうか。複数のFacebookのグループを立ち上げて、他人の誹謗中傷を多々行ったりしてますよね。

    議論を回避する教室?その前に西岡氏自身、それを否定する行動を行ってますよね。

    SNSグループで「民主的に行うつもりはない」とか、挙げ句の果てには気に入らない人をグループから追い出して、「粛清」とかさらし者にしたり。自分たちの都合の悪い主張を封殺したりしている。香港出身の私としては科学教育を問う前にご自身の行動の是非を問うべきかと思います。ある種、怒りのようなものも感じます。

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