フラッシュバック 90s【Report.6】価値中立的な教育など存在しない

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Report.5ではゆとり教育を導入していく中で、90年代は学校教育が学習塾を受容し、生徒にとっては、学校生活と勉学が一枚岩にならない「二枚舌」状況となったことをお伝えしました。

そして、その真の原因には霞ヶ関と「学校教育の現場」が調整しきれていなかった。誤解を恐れずに言えば、これまで「学校教育の現場」に霞ヶ関が合わせていたが、突如として、霞ヶ関がリードして、「学校教育の現場」の方針を決定していったことが挙げられます。

左巻きの「学校教育現場」の勘違い

皆さん、ご存知だと思いますが、日本の「学校教育現場」は戦後、一貫して左巻きでありました。それ自体の分析や善悪の判断はこの場ではいたしませんが、地域における行政の管轄とは別途形成される教育委員会というものがある時点で、「教育は時の政権から干渉されず、独立したもの」と捉えられてきました。

しかし、皮肉なことに、「学校教育現場」は「政権から干渉されないこと」=「反体制」といった方程式を作り上げたのです。これはマルクスが提唱していた労働者と資本家の階級闘争史観から影響を大いに受けたものでしょう。

そして、戦後日本の体制は55年体制が築かれて以降、自民党政権でした。つまり、「学校教育現場」は反自民、あるいは自民をバックアップしてきた米国に対するアンチテーゼを打ち立てることによってポジションをキープしてきたわけです。

いわずもがな、彼らが支持する政党は社会党になります。

これこそ、「手段の目的化」の最たるものなのですが、90年代前半には状況が変わります。

自民党・社会党連立政権樹立

90年代前半に55年体制以降、初めて野党になった自民党はこれまでの怨讐を忘れたかのように社会党の総理大臣を指名することを条件に、与党に戻りました。
この段階で、「学校教育現場」は反体制ではなくなります。

私の記憶によれば、このころから、慰安婦報道や日本のいわゆる「戦争犯罪」に関する謝罪や過剰な報道が始まります。敗戦50年にあたる「村山談話」では、先の大戦で近隣諸国に対して、迷惑をかけ「謝罪した」という設定になりました。

つまり、「学校教育現場」がこれまで反体制として支持してきた団体である社会党が与党になることで、表沙汰になることがなかったいわゆる「自虐史観」が表舞台に現れて批判の的になってきたといえます。

国旗・国歌の取り扱いについて

そして、「学校教育現場」が最も批判の対象となったのは、この「国旗・国歌」の取り扱いに関してでしょう。

1985年に文部省から出された通達では、「国旗・国歌」の取り扱いに関して触れています。このころでも、入学式において国歌を半分以上の小学校が歌っていないという調査データがあったようです。

ただ、「適切な取り扱いについて徹底すること」という非常に「学校教育現場」に気を使った言い回しとなっています。

→ 次ページ「日の丸・君が代はさきの大戦の象徴?」を読む

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西部邁

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