日の丸・君が代はさきの大戦の象徴?
私はちょうど、90年代に小学生を過ごした世代になります。いわゆる「自虐史観」的な教育を受けた世代でもあり、「特攻隊は薬を打たれていた」といった印象操作以外の何物でもない情報を授業中に受けていた世代であります。
その論調で、記憶に残っているのは「日の丸・君が代」はさきの大戦の象徴だから変えなければならないということでした。
小学校2年生ぐらいだった私は、「もう新しくしたらいいんじゃない?」と思ってしまうぐらい、先生たちの訴えが根拠の弱さの割にしつこかったのをよく覚えています。
ちなみに、私はその学校教育を当時通っていた学習塾の歴史の授業で脱色しました。明治維新以前から続く、アジアにおける西洋列強の動きを鑑みてみれば、少なくとも、今の価値観で先人たちを裁くという気にはなれず、感謝と誇りを覚えていました。
「国旗・国歌法」に屈した教師たち
その一連の騒動は与党復帰した自民党が、自由党、公明党、そして、民主党の一部の賛成を得て、日の丸を国旗、君が代を国歌と制定する「国旗・国歌法」を1999年に制定されたことで決着となりました。
ちなみに、各国の国旗・国歌法制についてまとめたサイトによれば、ほとんどの国が憲法、あるいは法律で国旗・国歌を制定しています。世界がそうしているから日本もそうすべきという論調を振りかざす気はありませんが、少なくとも、「国民国家」を形成する上で避けては通れない道なのでしょう。
では、日の丸や君が代を否定していた「学校教育現場」は一体どうしたか。
法律が制定されて初めての卒業式では、頑なに活動を行ってきた一部をのぞき、国旗掲揚時に起立し、国歌を斉唱していました。
「学校教育現場」が一枚岩ではないことの表れなのでしょうが、それ以上に多感な子どもたちの中には、そこに社会、あるいは大人の「二枚舌」を敏感に感じ取った人もいるに違いありません。
ある意味で、このことも公教育の失墜の大きな一端を担ったと言えるでしょう。
教育と政治・宗教の距離感
教育というのは常に人と人との関係性から生まれていきます。よく、「学ぶ」は「真似ぶ」という言葉とひも付けられ、真似することから学びが始まるとされます。
そう考えると、学ぶ際、誰の真似をするのか、あるいはどういった人間が真似されるのかということは非常に重要な問題です。
同じように、教育も人間関係を前提としている以上、どのような人間が教師になるかという問題が常につきまとってきます。
一つの答えとして、誰が教師の立場になっても問題がないように、「中立的な価値を教える」といった表現は可能でしょう。
ただ、中立的な価値とは一体何かを判断するガイドラインが出来上がった時点で、「そのガイドラインは中立である」という一つの価値が生まれてきます。
もっと、割り切って、知識や科学的な事実の伝達だけに徹すればいいとなれば、学習塾業界が学校の代わりになればよいでしょう。生活の一部として、学校で子どもたちを集団生活させる意味が弱くなってきます。
もし、学校が知識や科学的事実、あるいは試験で点数を取るテクニックだけでなく、社会のルールや価値観を教える場であるとするならば、そこには何らかの価値や教えが求められるわけです。
宗教法人を母体としている私立学校ならばまだしも、生まれや家庭環境が様々な公立学校がそのような役割を担うことは、もはや不可能な状況にまで時代は進んでいます。
そのような状況でありながら、「教育は価値中立で、権力から分離されるべき」という、ある種の詭弁を振りかざしてきた、「学校教育現場」の断末魔が始まったのが、90年代の教育業界だったのかもしれません。
さて、ここ2回ほど、重たい話でしたが、いかがだったでしょうか?
Report.7では、少し視点を変えまして、90年代にミリオンセラーが連発していたCD文化について触れてみたいと思います。
※第7回「フラッシュバック 90s【Report.7】
僕たちはいつから音楽を「聴かなく」なったのだろう?」はコチラ
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