【PR】オトナのマンスリーマガジン「月刊WiLL」は年間購読がお得!
日本はノーベル賞大国
そして、ディスカッションとはただ一方的に自分の主張を述べるだけでなく、討論の相手に対する礼儀を身につける必要があるから、同級生同士でも敬語を使って意見を交換するとか、意見の違う相手に対しても敬意を持つなど武道と同様、「礼に始まり、礼に終わる」対話の仕方を身につけることが子供にも求められる。
科学教育の基礎は、本を読む子供を増やし、友達同士であっても、敬語を使って論理と論理で意見を交換するという国語教育なのである。それを忘れて、ただ面白い実験を見せればいい、などとする日本のテレビは、科学教育の在り方を本気で考えているのであろうか?
そして、科学教育でもっとも大切なものは考えることの面白さ、楽しさを教えることである。「宇宙は本当に無限なのか?」とか、「時間に始まりはあるのか?」とか、「生命はいかにして誕生したのか?」などといった、ノーベル賞受賞者でも答えに達していないような問いを子供に考えさせ、討論させるといったことで、子供は考えることの面白さを知り、科学に目覚めるのである。
昔、あるイギリス人の脳科学者が「良い実験は良い考えから生まれます」と言うのを聞いたことがある。日本語ができるこのイギリス人科学者は日本語でこう言ったのだが、深い言葉である。
iPS細胞も、実験からいきなり生まれたものではない。「良い考え」から生まれた発見であった。実験は重要だが、「良い考え」を持つことは実験以上に大切である。このことを子供たちに教えることは、「実験の面白さ」を教えることよりも遙かに大切なことではないか。
言うまでもなく、物理学賞だけですでに十人のノーベル賞受賞者を輩出したことは、明治以降の日本の科学の水準が、非西欧の国々のなかでは群を抜いて高かったことを証明している。
ヨーロッパの国々のなかでも、たとえばポーランドはノーベル賞を二度受賞したキュリー夫人の祖国であり、数学などでは優れた人材を輩出した国ではあるが、キュリー夫人以後は、自然科学分野でのノーベル賞受賞者を出していない。
それなりに人口もあり、ノーベル文学賞受賞者は何人も輩出している文化水準の高いポーランドにして、そうなのである。それを考えれば、極東の国・日本が、物理学賞だけで十人ものノーベル賞受賞者を輩出していることは特筆に値することである。
日本人が受賞できる理由
では、日本が非西欧の国々のなかで短期間に近代化を成し遂げ、基礎科学でも応用技術でも欧米に並ぶ水準の国になった最大の理由は一体、何だったのだろうか?
私は、日本語であったと考える。さらに言えば漢字である。漢字を使ったことが明治以来、いや実は江戸時代以来、日本人が非西欧の国々のなかに在って唯一、西欧に並ぶ水準の科学を自国の文化として持ちえた理由である。そのことを、日本の教育行政に与る人々は自覚しているのだろうか?
これはあまり知られていないことだが、日本を除く多くのアジア・アフリカの国々では、自然科学を学ぶためにはまず、英語やフランス語を学び、習得しなければならないのである。数学や物理学や化学といった自然科学を学ぶにはまず、英語やフランス語を学ばなければ、数学や物理や化学を本を読むことができないというのが、アジア、アフリカの多くの国々では当たり前なのである。
逆に言えば、自然科学を学ぶ者はそれ以前に英語やフランス語を習得しているか、事実上の「母国語」として話し、読める者であるのが当たり前だというのが、アジア、アフリカの多くの国々における科学教育の前提なのである。
当然、一定以上の水準の科学を学ぶのは、英語やフランス語に習熟した人々だけである。日本の高校生は微積分学を母国語である日本語で学んでいるが、微積分学を英語でもフランス語でもなく自国語で学ばせるなど、アジア、アフリカの多くの国々では考えられないことなのだ。そしてそれは、日本の漢字文化が可能にしたことだったのである。
面白い話がある。二〇〇八年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏(一九四〇〜)は英語が大の苦手で、ストックホルムでのノーベル賞授与式でも「I can not speak English……(私は英語が喋れません……)」と言って講演を始めたことが話題になった(謙遜している部分もあると思うが、益川教授が学生時代から英語が苦手だったことは事実のようである)。
ところが、ノーベル物理学賞を受賞した益川氏が「英語が喋れない」と言ったことが、韓国では驚きをもって受け止められたという。
韓国人の常識から考えれば、ノーベル賞を与えられるような研究をする科学者ならばまず、英語ができるに違いないということなのである。英語ができなければ物理学は勉強できないし、研究することもできないと韓国人は考える。だから、韓国人はノーベル賞を受賞した日本人物理学者が「英語は喋れません」と言ったことに驚いたのである。
このことは、日本人が当たり前のように思っている母国語で科学を学び、研究できることが、どれだけ世界のなかでは奇跡に近いことであるかを物語っている。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
9月からASREAD投稿者として参加させていただいている評論家の小浜逸郎と申します。
このたびの記事に全面的に賛意を表します。日頃うすうす考えていたことを明快に説いていただき、たいへん心強く思いました。
母国語で物理用語を編み出した明治の先人たちの血のにじむような努力を、平成の教育が破壊していると思うと、許すことができない気分になります。
ゆとり教育が推進されていた当時、これはえらいことになったと感じて、ささやかな反対の論陣を張ったのですが、現在もなおその弊害がそのまま残っているのですね。本当に嘆かわしいことです。
この困った潮流に対して少しでも抵抗を試みようと、最近、ごく少数の仲間に呼びかけて「ガリレイの会」なるものを始めました。素人オヤジが集まって、かつて学んだ高校理科を復習していこうという試みです。おっしゃる通り、物理、特に力学は、自然がどんな姿をしているかを理解する基礎ですから、まずは力学から始めています。
これからもよろしくご鞭撻をお願いいたします。
● 科学教育を問うその前に
ご高説は良いのですが、西岡氏ご自身たちの行っていることは一体何なんでしょうか。複数のFacebookのグループを立ち上げて、他人の誹謗中傷を多々行ったりしてますよね。
議論を回避する教室?その前に西岡氏自身、それを否定する行動を行ってますよね。
SNSグループで「民主的に行うつもりはない」とか、挙げ句の果てには気に入らない人をグループから追い出して、「粛清」とかさらし者にしたり。自分たちの都合の悪い主張を封殺したりしている。香港出身の私としては科学教育を問う前にご自身の行動の是非を問うべきかと思います。ある種、怒りのようなものも感じます。