「国家の輪郭」としての靖国神社 — 首相の靖国参拝に求められる「論理」について
- 2014/1/2
- 政治
- 靖国神社
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安倍首相が、就任1周年を迎えるタイミングで靖国神社に参拝していたことが明らかになりました。政権発足から1年が経ったから参拝するというのは意味がよく分かりませんし、首相談話に言われるような「不戦の誓い」が靖国神社という場に相応しいのかという疑問はありますが、せっかくなのでここで、首相が靖国神社に参拝するということの意味について考えてみたいと思います。
長いので、もともと靖国問題に詳しい方は「7.靖国神社は『政治的』な施設である」あたりからお読み頂ければと思います。
1.いつも通りの反応
毎度のことですが、中国政府は「強烈な抗議と厳しい非難」を表明し、韓国政府は「嘆かわしく怒りを禁じ得ない」との声明を発表しました。そればかりか今回はアメリカ政府も「近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに米国政府は失望している」と言い、国連も「過去から生じる緊張がいまだに(北東アジア)地域を悩ませていることを非常に遺憾に思う」と批判しています。ついでにロシアや台湾やシンガポールも、憂慮の声を上げているようです。
国内のメディアが、産経新聞を除いてほぼ「安倍叩き」一色となっているのも毎度のことで、目新しい内容のものはありません。
批判の代表例としては、靖国神社の存在そのものを忌み嫌う朝日新聞が「戦前の靖国神社は、亡くなった軍人らを『神』としてまつる国家神道の中心だった。(中略)その存在は一宗教法人というにとどまらない。あの歴史を正当化する政治性を帯びた神社であることは明らかだ)」(記事リンク)と書き、経済が大事だから外国と揉めるのはやめてくれと叫ぶ日経新聞が「いまの日本は経済再生が最重要課題だ。(中略)アベノミクスでも掲げた『アジアの成長力を取り込む』という方針に自ら逆行するのか。経済界には首相への失望の声がある」(記事リンク)と書いているのを挙げておけば良いでしょうか。
産経新聞が首相の参拝を高く評価するのもお決まりのパターンで、要点をまとめると、
- 国のために戦死した人の霊に哀悼の意をささげるのは、ごく普通の自然な行為であり、世界各国の指導者に共通する責務である。
- 国や故郷を守るために戦った兵士たちが祀られる靖国神社を参拝することは、国を守る観点からも、首相の責務である。
- 靖国神社で戦没者の霊に祈りをささげるのは、日本の伝統文化であり心のあり方であって、外国から文句を言われる筋合いはないし、軍国主義とも関係はない。
- かつては天皇や首相などの公式参拝がごく普通に行われていた。中国が文句を言うようになったのは80年代以降で、彼らの批判は後付けに過ぎず、単なる外交カードである。
- 靖国神社は、旧連合国や日本の旧植民地をはじめ、外国の要人も多数参拝してきた。リットン調査団やGHQからも参拝者があった。この歴史を見れば、靖国神社が日本における戦没者慰霊の中心施設であることは間違いない。
- アメリカのアーリントン国立墓地には、南北戦争における南軍の将校も埋葬されているが、この墓地にアメリカの大統領や日本の首相がお参りしたからと言って「奴隷制度を肯定するのか」となじる者はいない。
といったところです[*1]。
[*1]「首相、靖国参拝 失望、抗議、怒り 厳しく」, 産経新聞, 2013年12月27日付./「主張 首相靖国参拝 国民との約束果たした 平和の維持に必要な行為だ」, 同./大原康男, 「正論 首相は今後も堂々と参拝重ねよ」, 同./百地章, 「正論 首相は英霊の加護信じて参拝を」, 産経新聞、2013年12月25日付.
2.「慰霊」という「国内問題」なのか?
私自身は昔から、天皇も首相も定期的に靖国神社へ公式参拝すべきだと思っているので、産経新聞の参拝推進論のほうが正しいと思いますし、未だにA級戦犯を「犯罪者」だと思っているような連中に対しては、小林よしのり氏のマンガ『靖国論』『いわゆるA級戦犯』でも読んで勉強しろと言いたいところです。
しかし以前から、保守派の靖国参拝推進論には気になるところもありました。一つは、靖国神社に参拝することの意義として、戦没者の「慰霊」や「鎮魂」という穏やかな面ばかりが強調される傾向にある点。もう一つは、靖国問題を「純然たる国内問題」であるとし、中国や韓国からの批判を「内政干渉である」という言い方で退けようとしている点です。
たとえば今年の11月に産経新聞に掲載された櫻田淳氏の論説では、「靖国神社参拝は本来、純然たる『鎮魂の行為』でしかないという説明を徹底させる」ことが、首相の靖国参拝に必要な前提条件の一つであるとされていました[*1]。
また、9月には同じく産経新聞に、大原康男氏の「もともと首相の靖国参拝は国内問題だ。中国は外交問題化させているが、内政干渉というほかない。韓国では毎年、伊藤博文を暗殺した安重根の追悼式を行っている。日本の初代首相の暗殺者を敬うことは日本人にとっては面白くないことだが、別に干渉したりはしない。韓国内の問題だからだ」というコメントが掲載されていました[*2]。
こうした言い方は、保守派の靖国参拝論の中では定番と化しているものです。首相が靖国神社を参拝するのは、戦没者を「慰霊」し、彼らへ「哀悼」の意を捧げるためであって、これは軍国主義とは無関係な、人間としての自然な感情に発するものである。戦没者の慰霊は世界のリーダー共通の責務であり、その方式については各国各様の文化に従うべきものである。したがって、靖国参拝は純然たる国内問題なのであり、外国がとやかく言うのは「内政干渉」に他ならないというわけです。
もちろん参拝推進派は他にも色々なことを指摘しているのですが、ここ十数年の議論をみると、「自然な感情」論と「純然たる国内問題」論をもって、「中韓の批判を気にする必要はなし」と主張するパターンが多かったように思います。
たしかに、靖国神社が「慰霊」(霊魂をなぐさめる)、「哀悼」(死を悲しみ悼む)、「鎮魂」(魂の動揺を鎮める)の場であるということ自体は間違いないでしょうし、もともと国内問題であったというのも正しい。60年代・70年代には靖国問題といえば主に政教分離問題だったのが、80年代になり、とくに中曽根首相が「公式参拝」を宣言した頃に、突如として中国から批判されるようになったのでした。
[*1] 櫻田淳, 「首相靖国参拝への『3つの条件』, 産経新聞, 2013年11月19日付.
[*2] 大原康男, 「中国の批判はご都合主義」, 産経新聞, 2013年9月7日付.
コメント
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2014年 1月 08日
靖国神社の意味合い、2面性、日本人としての精神の多面的な中の靖国神社という公共的な意思の形に表される2面性「同胞の死を悼む」「政治的な利用」を思索しそれを積み重ねて、落としどころを見つけて参拝するならすべきという事だと見ています。
それと、靖国神社への参拝をこのような形で評してくれることを感謝しています、今まで他のメディアの評論や意見を見ても形はあれども中身がある様な無い様なと言うようなものしかなかった。と思うのは私の勉強不足なのかもしれませんけどね。
ありがとうございます。
私は、上記の本文中では「不十分だ」みたいに書いてますが、一般のメディアの論評自体はすごく参考にしてきました。
保守派の、一昔前に「新しい歴史教科書をつくる会」とかをやられていた先生方は、ほんとによく調べられて整理されていたと思います。
ただ、結局のところその内容が、
① 年代も高く、もともと靖国神社に参拝するのが「自然」だと思っている人たち
② いわゆるネトウヨ的な、外国の悪口を言うことに過剰に熱心な人たち
のいずれかにしか届かないのではないかという危惧があり、「若い世代の、ふつうの人」が靖国神社をどう受け止めるべきかというのを、考えていきたいと思いました。
本文に補足です。
急に特攻隊に触れたくなったのは(笑)、この坂口安吾の『特攻隊に捧ぐ』という文章が頭にあったからです。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45201_22667.html
反戦平和主義者であるはずの安吾が、特攻隊を絶賛しています。
しかも、単純に絶賛しているのではなくて、ものごとの二面性を丁寧に捉えようとしているところが、すごい文章だな〜と思うのです。
川端祐一郎氏のご意見は、一見、もっともだと思われる方が多いかと思いますが、もともと、靖国神社の歴史は主に幕末から昭和そして平成の現代に至るまでの、我が国の近代化に尽くしてきた人々をお祭りする神社であり、特にあの大東亜戦争で戦われた軍人達が死んだ後で、靖国神社で再会しようと誓い合った特別の神社であります。
その靖国神社には政治問題化するまでは昭和天皇もご参拝され、今も生きている中曽根元総理大臣が参拝するまではここまで政治問題とはなっておりませんでした。
靖国神社自体が当初から政治問題化する神社ではなく、マスコミが政治問題化したのは事実であり、川端祐一郎氏のご意見はそのことをもって論理破綻されているかと思いますが、如何でしょうか。反論を私のメールアドレスまでお待ちしております。
マスコミが政治問題化した歴史は知ってますよ。正確にいうと、参拝そのものが問題視されるようになったのは、中曽根首相の公式参拝の10年前に三木首相が「私的参拝」論を唱えたあたりからですが。60年代の終わりから70年代半ばにかけては、靖国神社法案(いわゆる国家護持法案)でもめていましたので、もっと前から靖国問題は政治問題だったとも言えます。
松田さんが「政治問題化」とおっしゃってるのはたぶん「外交問題化」という意味でしょう。
もしそうだとして、外交問題化のきっかけをマスコミが与えた面は大いにあると思いますが、そのことと、もともと問題化し得る要素があったかどうかは別問題ですよね。
保守派の多くは、そもそも問題化し得る要素がなかったと思ってるみたいですが、私は少なくとも潜在的にはあるはずだと思ったので、その理由を本文で説明してます。
また、もう既に問題化してるわけですから、「このケンカを最初に煽ったのはマスコミだ」なんて指摘してもあまり意味はなくて、単純に、参拝を推進する側には「正義」があるのだということを説明し続ければいいんじゃないかと思います。
よく考察された論文だと思います。
靖国神社の存在を、いままでにない視点から解剖し展開したことはすごく新鮮でした。
国家という存在の二面性を論じることは、いまとても必要だと思いますね。
十分読み込んでから、改めてコメントします。こうした文章はメディアやネットに拡散することを願います。
中野剛志さんのメールマガジンに導かれて、川端祐一朗さんの論考に触れることができました。はじめてコメントを書かせていただきます。
私もかねてより、靖国神社の慰霊施設としての性格ばかりを伝えようとすることに対して、またおそらくそれと軌を一にしてのことでしょうが、場所柄をわきまえず「不戦の誓い」を立てようとすることに対して、つよい違和感を覚えてきました。それゆえ、川端さんの論考におおむね賛同することができました。とはいえ、賛同しかねるところもあると感じました。
おっしゃるとおり、靖国神社はもとより諸国の戦没者追悼施設はいずれも、対外戦争の顕彰施設としての性格を帯びています。しかしだからといって、戦没者追悼のあり方が外交問題化するのは当然だといえるでしょうか。やや飛躍しすぎるのではないでしょうか。それどころかむしろ、川端さんの論考を読み進めるほどに、外国の戦没者追悼のあり方に干渉してはならない理由がそこに書かれているように思えました。
いかなる国家も固有の権利として、国防力を保持することができます。国防力を過大に保持していれば非難されてしかるべきですが、国防力を保持していること自体は非難されるいわれはありません。そして諸国の戦没者追悼施設は、たんなる慰霊施設ではなく顕彰施設でもあればこそ、国防力の中核あるいは基底に位置するものです。
櫻田淳氏が靖国神社を「兵士の士気」を支える「安全保障装置」と呼んだのも、それを言わんとしてのことでしょう。川端さんはさらに本質に迫った論証をされています。私なりに理解したところでは、戦没者追悼施設は、国家と国民が生命の保護と死の強要とを交換する、あるいは交換したことを確認する場であるがゆえに、われわれが国民国家を形成しようとする切実な動機と結びついています。
とすればなおのこと、生命の保護と死の強要との交換関係の外に立つ者が、戦没者追悼のあり方に干渉するのは、その国家の存立の基盤を破壊することにつながりかねません。そして、国家の存立の基盤を破壊することを許しては、国家と国家の間にルールは成り立ちません。戦没者追悼のあり方を外交問題化しないことを、国際社会のルールとみなすべきだと考えるゆえんです。
日本が諸外国に対して、自前の歴史認識を語り始めるのは、たしかに厳しい覚悟を要するでしょう。それにくらべれば、国際社会のルールに立ち還れと、あるいは国民国家を成り立たせているところの万国共通の仕組みを思い起こせと説くほうが、ずっとやさしいのではないでしょうか。
長文にわたり失礼しました。
コメント有り難うございます。
おっしゃることは非常によく分かります。私がいいたかったのは、より正確には、「外交問題につながり得るような、心情的・道義的・思想的なわだかまりをかならず内包する」ということです。
それが明示的な「外交問題」に発展するかどうかは場合によると思いますが、そうはいっても、暗黙のわだかまりはあってもおかしくないだろうということです。殺し合いをしたわけですし、一応お互いがお互いの「正義」を掲げて戦ったわけですからね。
本文ではごっちゃになっていたので、分けて考えます。
1.殺し合った「旧敵どうし」のわだかまり
殺し合いをしたわけですから、当然わだかまりはあります。
「どっちもどっち」な喧嘩であったとしても、やはり自分のじいちゃんを殺した相手のことは憎いのが普通でしょう。
2.「正義」をめぐるわだかまり
本文の中で「そして、戦没者の慰霊や顕彰というような行為は、もともと「正義」をめぐる対立を生みやすい話題だと考えるべきなのです。」と書いたのは、お互いが「正義」を掲げて戦ったということが前提になっています。
それで負けた結果何が起きたかというと、日本の正義が外交上「否定」されてしまったわけです。
で、これらのわだかまりが、「対等な対立」であればお互いにもう面倒だからあまり干渉しあわないようにしようというのも成り立つと思いますが、大東亜戦争はそうではないのです。
正直屋さんが、
> 国際社会のルールに立ち還れと、あるいは国民国家を成り立たせているところの万国共通の仕組みを思い起こせと説くほうが、ずっとやさしい
と書かれていますが、日本側は東京裁判で「平和に対する罪」で裁かれたわけで、これって要するに、国際社会のあるべきルールを破った輩ということになっているわけですよね。
だから、旧連合国(及び、「被害者」であるというスタンスに決めてしまった旧植民地である韓国)の論理を簡単に言ってしまうと、「そりゃ、それぞれの国家には対等な権利があるということで良いと思うよ。でも日本は、そういう国際秩序を破ったのであって、だから俺たちは怒ってるんだ。日本軍国主義は人類共通の敵なんだから、そんなものの象徴である靖国神社に首相がお参りするなんてもってのほかだわ」っていう話です。「靖国神社は、お前らのルール違反の象徴なんだから、そんなところで慰霊することを認めることはできない」という理屈になるわけですね。
もちろん、この東京裁判史観はほとんど言いがかりだと思いますが、その言いがかりの論理がいまだにけっこう根強く生きているのに、それに正面から反論せずに「あくまで戦没者の追悼です」「戦没者の追悼は各国の内政問題です」とか言っててもそれは無理があると思います。
日本の戦争は、ヨーロッパ諸国同士の植民地競争のような、「どっちもどっち」の戦争とは認めてもらえていないのです。極論すれば、テロ国家とかならず者国家みたいに扱われているわけですよ(笑)
原爆を落としたアメリカのほうが、よっぽどならず者だと思いますけどね。
結論としては正直屋さんのおっしゃる論理が正しいと思うのですが、そういう正しい論理の枠内で捉えてもらえる状況にないのが現状なんじゃないでしょうか。そういう状況で靖国神社に参拝するというのは、最初から「論戦」を仕掛けているのに等しいと思うのですよ。靖国参拝は、「日本はテロ国家ではなかった。ふつうに自国の生存のために戦っただけで、お互い様だ。文句あるか?」っていう主張を、明確に伴う行為だと思うのです。
素晴らしい考察だと思います。
私が思うのは、靖国問題とは、靖国参拝にこだわりながら(否定でも肯定でも)
自分たちが置かれている状況を直視し難く、逃げている日本人の精神性を象徴した問題ではないか? と、考えてみました。
コメントありがとうございます。
基本的には、靖国神社は国内問題である。そして、天皇の名で死んでくれという施設である。憲法には政教分離原則が存在する。 それにもかかわらず、靖国神社に公的性格を与えようとするのは、立憲主義の否定であり、国家神道の強制を狙うものである。 私は、天皇の名では死ねない。日本を反近代の祭祀国家に逆戻りさせるのはおかしい。 祭祀とは特定の共同主観を込めた宗教的象徴行為である。 祭祀を公的な存在にするということは、直ちに共同主観の強制に繋がる。 アイヌの熊送り、殷・アズテクの他部族生贄、マヤ・インカの自己犠牲・自己生贄、自然神への奉納はいずれも多神教としての自然神に対する賄賂のバリェーションである。 歴史・伝統・文化から自分たちが正統と考える国家神道的イデオロギーを恣意的に抽出し、合法的統治の下敷きにある正当性・妥当性・有効性の観点から物事を判断せず、血統的・系譜的レジテマシー正統にこだわり、それらを自ら奉じない者を異教・異端と言論弾圧する。 靖国を公的存在にするということは国家がそのような方向を目指すということだ。 他国に干渉されるから靖国参拝に賛同するということは、自我を処刑し、天皇に自己犠牲をささげようという究極の自虐である。