「国家の輪郭」としての靖国神社 — 首相の靖国参拝に求められる「論理」について
- 2014/1/2
- 政治
- 靖国神社
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7.靖国神社は「政治的」な施設である
靖国神社が「戦死者を英雄として顕彰する」施設であることを考えると、靖国神社というのはその本質からして、純粋な宗教施設ではあり得ず「政治性」を帯びたものであることもよく分かります。
神道の儀式を執り行っているわけですから、日本人の自然な宗教感覚と習俗に基づく文化であるという面もたしかにあると思いますが、靖国神社における戦没者の祭祀は、単なる「伝統文化」や「死を悼む感情」では説明できない性質を持っています。
靖国神社における戦没者の合祀は、戦前は陸海軍省、戦後は厚生省が作成した名簿に基づいて行われてきました。じつは終戦後も、まだ合祀されていなかった戦没者が数百万人いたので、厚生省がその事務を引き継いで「合祀されるべき戦没者」のリストアップを行っていたのです(A級戦犯についても同様で、国会図書館が資料を公開しています。)。
この名簿の作成に当たっては、たとえば戦病死や自決の場合のように、合祀に値するか否か判断が必要な場合もありました。いわば政府が、靖国神社に合祀すべきか否か、言い換えると「英雄」と呼ぶに値するかどうかを、特定の価値観に基づいて選別していたわけです。
アリストテレスは「人間はポリス的(国家的≒政治的)動物である」と言い(『政治学』)、政治学者のカール・シュミットは、政治性とは「友と敵」の区別に関わるものだと言いました(『政治的なものの概念』)。人間がつねに誰かと戦っていなければならないというわけではありませんが、特定の価値観を共有する者同士で団結し、異なる価値観を持つ者との間に距離を置くという程度の意味での「政治性」は、人間社会の普遍的な性質です。首相の靖国神社参拝という行為は、「敵」と戦って死んだ英霊を顕彰しているわけですから、この意味での政治性を多かれ少なかれ帯びざるを得ないはずです。
私は、首相の靖国参拝というのは、「戦没者の鎮魂」に加えて以下のような政治的含意を表現する行為であると考えています。
- 国家は、時として国民に、(友たるものの義務として)死を強要するものであるということ
- 国家は、自国の生存のために外国と戦火を交えることがあるということ
- 国家は、国家にとって特別に有意義な死に方と、そうでない死に方を区別するということ
- 国家が戦没者を顕彰する行為には、彼らの戦った戦争には「大義」があるということが含意されるということ
- 国家的行事には、国家にとって最も正統的と考えられる宗派の儀式が採用されるのであり、これは国民一人一人の信教の自由とは別問題であるということ
なお「国家」には、文化的共同体としての「ネイション」という側面と、統治機構としての「ステイト」という側面があって、両方を合わせてネイション=ステイト(国民国家)ということもありますが、ここでは簡単に両者をひっくるめて「国家」と呼んでおきます。国民という集団のことを指しているだけでも、政府機構を指しているだけでもない点に注意してください。
首相の靖国神社参拝という行為は、慰霊や追悼という意味ももちろん込められているでしょうが、同時に上記のような政治的メッセージを、強かれ弱かれ体現するものだと理解すべきなのです。「同胞の死を悼む」という穏やかな側面を一方で持ちながら、他方では「政治的動物」としての人間社会の穏やかならぬ一面を表現しているわけです。
8.国家が持つさまざまな「二面性」
上に挙げたような靖国神社の「政治性」を、おぞましいと感じる人もいるでしょう。しかしこの政治性は、我々が「国家」というものを形成して生きる動物である以上、引き受けざるを得ない「人間社会の本性」であると理解することが重要です。
ところで、国家というものは、以下のように様々な意味で二面性をもった存在です。少し抽象的な議論になりますがお付き合い下さい。
- 「生命の保護」と「死の強要」:我々は国家を形成することにより、共同で生命を保護する努力をしている。しかし一方で、国家は危機に臨んで国民に「死」を強要する存在でもある。
- 「多様性」と「統一性」:国家は、国内文化の多様性を保護するための様々な制度を持っている。しかし一方で我々は、文化的な一体感をナショナリティとして共有してもいる。
- 「国民の権利」と「国民の義務」:国家という共同体は数多くの法律的・慣習的ルールを有しており、我々はそのルール体系に従うことで、互いの権利を尊重し合い様々な自由を享受している。しかし一方でその法律と慣習の体系は、我々の権利に一定の制限をかけ、義務を課すものでもある。
- 「他国への依存」と「他国からの独立」:国家は他国との間で相互依存関係にあって、たとえば日本はエネルギー資源や食料の多くを輸入に頼っている。しかし一方で、あくまで国家は自らの独立した地位を保たんとするものでもある。
- 「現実性」と「物語性」:我々の国家は、国土や文化的遺産や軍事力など現実的な実体を有している。しかし一方で国家は、「想像の共同体」(B.アンダーソン『想像の共同体』)とも言われるように、我々のイマジネーションや物語の共有によって成り立っている面も多分にある。
- 「世俗性」と「宗教性」:我々は国家という共同体を、政治や経済などの世俗的な問題を解決するための枠組みとして活用している。しかしその一方で国家は、宗教感覚の共有と伝承を通じて、我々に「聖なる世界」への関わり方を教えてくれる存在でもある。
- 「過去志向」と「未来志向」:国家という共同体は、過去の歴史を共有することで成り立っている。しかし一方で国家は、未来へ向かって共同で事業を行うプロジェクトチームとしての側面も持っている。
- 「意思」と「運命」:国家が取る行動は、基本的には国民が意思を持って選択したものであると言える。しかし一方で国家の行動は、歴史の積み重ねや国際関係上の理由から、国民の意思を超えた「運命」のようなものに流されるようにして決まることも多い。
我々が理解しなければならないのは、こうした様々な二面性の両面をきちんと捉えなければ、国家というものの本質を見誤ってしまうということです。人間が国家を形成し、国家の中で生き、国家を運営するとは、このような二面性の境界に立って、妥協点を見つけたりバランスを取ったりする努力を続けるということでもあるのです。
コメント
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2014年 1月 08日
靖国神社の意味合い、2面性、日本人としての精神の多面的な中の靖国神社という公共的な意思の形に表される2面性「同胞の死を悼む」「政治的な利用」を思索しそれを積み重ねて、落としどころを見つけて参拝するならすべきという事だと見ています。
それと、靖国神社への参拝をこのような形で評してくれることを感謝しています、今まで他のメディアの評論や意見を見ても形はあれども中身がある様な無い様なと言うようなものしかなかった。と思うのは私の勉強不足なのかもしれませんけどね。
ありがとうございます。
私は、上記の本文中では「不十分だ」みたいに書いてますが、一般のメディアの論評自体はすごく参考にしてきました。
保守派の、一昔前に「新しい歴史教科書をつくる会」とかをやられていた先生方は、ほんとによく調べられて整理されていたと思います。
ただ、結局のところその内容が、
① 年代も高く、もともと靖国神社に参拝するのが「自然」だと思っている人たち
② いわゆるネトウヨ的な、外国の悪口を言うことに過剰に熱心な人たち
のいずれかにしか届かないのではないかという危惧があり、「若い世代の、ふつうの人」が靖国神社をどう受け止めるべきかというのを、考えていきたいと思いました。
本文に補足です。
急に特攻隊に触れたくなったのは(笑)、この坂口安吾の『特攻隊に捧ぐ』という文章が頭にあったからです。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45201_22667.html
反戦平和主義者であるはずの安吾が、特攻隊を絶賛しています。
しかも、単純に絶賛しているのではなくて、ものごとの二面性を丁寧に捉えようとしているところが、すごい文章だな〜と思うのです。
川端祐一郎氏のご意見は、一見、もっともだと思われる方が多いかと思いますが、もともと、靖国神社の歴史は主に幕末から昭和そして平成の現代に至るまでの、我が国の近代化に尽くしてきた人々をお祭りする神社であり、特にあの大東亜戦争で戦われた軍人達が死んだ後で、靖国神社で再会しようと誓い合った特別の神社であります。
その靖国神社には政治問題化するまでは昭和天皇もご参拝され、今も生きている中曽根元総理大臣が参拝するまではここまで政治問題とはなっておりませんでした。
靖国神社自体が当初から政治問題化する神社ではなく、マスコミが政治問題化したのは事実であり、川端祐一郎氏のご意見はそのことをもって論理破綻されているかと思いますが、如何でしょうか。反論を私のメールアドレスまでお待ちしております。
マスコミが政治問題化した歴史は知ってますよ。正確にいうと、参拝そのものが問題視されるようになったのは、中曽根首相の公式参拝の10年前に三木首相が「私的参拝」論を唱えたあたりからですが。60年代の終わりから70年代半ばにかけては、靖国神社法案(いわゆる国家護持法案)でもめていましたので、もっと前から靖国問題は政治問題だったとも言えます。
松田さんが「政治問題化」とおっしゃってるのはたぶん「外交問題化」という意味でしょう。
もしそうだとして、外交問題化のきっかけをマスコミが与えた面は大いにあると思いますが、そのことと、もともと問題化し得る要素があったかどうかは別問題ですよね。
保守派の多くは、そもそも問題化し得る要素がなかったと思ってるみたいですが、私は少なくとも潜在的にはあるはずだと思ったので、その理由を本文で説明してます。
また、もう既に問題化してるわけですから、「このケンカを最初に煽ったのはマスコミだ」なんて指摘してもあまり意味はなくて、単純に、参拝を推進する側には「正義」があるのだということを説明し続ければいいんじゃないかと思います。
よく考察された論文だと思います。
靖国神社の存在を、いままでにない視点から解剖し展開したことはすごく新鮮でした。
国家という存在の二面性を論じることは、いまとても必要だと思いますね。
十分読み込んでから、改めてコメントします。こうした文章はメディアやネットに拡散することを願います。
中野剛志さんのメールマガジンに導かれて、川端祐一朗さんの論考に触れることができました。はじめてコメントを書かせていただきます。
私もかねてより、靖国神社の慰霊施設としての性格ばかりを伝えようとすることに対して、またおそらくそれと軌を一にしてのことでしょうが、場所柄をわきまえず「不戦の誓い」を立てようとすることに対して、つよい違和感を覚えてきました。それゆえ、川端さんの論考におおむね賛同することができました。とはいえ、賛同しかねるところもあると感じました。
おっしゃるとおり、靖国神社はもとより諸国の戦没者追悼施設はいずれも、対外戦争の顕彰施設としての性格を帯びています。しかしだからといって、戦没者追悼のあり方が外交問題化するのは当然だといえるでしょうか。やや飛躍しすぎるのではないでしょうか。それどころかむしろ、川端さんの論考を読み進めるほどに、外国の戦没者追悼のあり方に干渉してはならない理由がそこに書かれているように思えました。
いかなる国家も固有の権利として、国防力を保持することができます。国防力を過大に保持していれば非難されてしかるべきですが、国防力を保持していること自体は非難されるいわれはありません。そして諸国の戦没者追悼施設は、たんなる慰霊施設ではなく顕彰施設でもあればこそ、国防力の中核あるいは基底に位置するものです。
櫻田淳氏が靖国神社を「兵士の士気」を支える「安全保障装置」と呼んだのも、それを言わんとしてのことでしょう。川端さんはさらに本質に迫った論証をされています。私なりに理解したところでは、戦没者追悼施設は、国家と国民が生命の保護と死の強要とを交換する、あるいは交換したことを確認する場であるがゆえに、われわれが国民国家を形成しようとする切実な動機と結びついています。
とすればなおのこと、生命の保護と死の強要との交換関係の外に立つ者が、戦没者追悼のあり方に干渉するのは、その国家の存立の基盤を破壊することにつながりかねません。そして、国家の存立の基盤を破壊することを許しては、国家と国家の間にルールは成り立ちません。戦没者追悼のあり方を外交問題化しないことを、国際社会のルールとみなすべきだと考えるゆえんです。
日本が諸外国に対して、自前の歴史認識を語り始めるのは、たしかに厳しい覚悟を要するでしょう。それにくらべれば、国際社会のルールに立ち還れと、あるいは国民国家を成り立たせているところの万国共通の仕組みを思い起こせと説くほうが、ずっとやさしいのではないでしょうか。
長文にわたり失礼しました。
コメント有り難うございます。
おっしゃることは非常によく分かります。私がいいたかったのは、より正確には、「外交問題につながり得るような、心情的・道義的・思想的なわだかまりをかならず内包する」ということです。
それが明示的な「外交問題」に発展するかどうかは場合によると思いますが、そうはいっても、暗黙のわだかまりはあってもおかしくないだろうということです。殺し合いをしたわけですし、一応お互いがお互いの「正義」を掲げて戦ったわけですからね。
本文ではごっちゃになっていたので、分けて考えます。
1.殺し合った「旧敵どうし」のわだかまり
殺し合いをしたわけですから、当然わだかまりはあります。
「どっちもどっち」な喧嘩であったとしても、やはり自分のじいちゃんを殺した相手のことは憎いのが普通でしょう。
2.「正義」をめぐるわだかまり
本文の中で「そして、戦没者の慰霊や顕彰というような行為は、もともと「正義」をめぐる対立を生みやすい話題だと考えるべきなのです。」と書いたのは、お互いが「正義」を掲げて戦ったということが前提になっています。
それで負けた結果何が起きたかというと、日本の正義が外交上「否定」されてしまったわけです。
で、これらのわだかまりが、「対等な対立」であればお互いにもう面倒だからあまり干渉しあわないようにしようというのも成り立つと思いますが、大東亜戦争はそうではないのです。
正直屋さんが、
> 国際社会のルールに立ち還れと、あるいは国民国家を成り立たせているところの万国共通の仕組みを思い起こせと説くほうが、ずっとやさしい
と書かれていますが、日本側は東京裁判で「平和に対する罪」で裁かれたわけで、これって要するに、国際社会のあるべきルールを破った輩ということになっているわけですよね。
だから、旧連合国(及び、「被害者」であるというスタンスに決めてしまった旧植民地である韓国)の論理を簡単に言ってしまうと、「そりゃ、それぞれの国家には対等な権利があるということで良いと思うよ。でも日本は、そういう国際秩序を破ったのであって、だから俺たちは怒ってるんだ。日本軍国主義は人類共通の敵なんだから、そんなものの象徴である靖国神社に首相がお参りするなんてもってのほかだわ」っていう話です。「靖国神社は、お前らのルール違反の象徴なんだから、そんなところで慰霊することを認めることはできない」という理屈になるわけですね。
もちろん、この東京裁判史観はほとんど言いがかりだと思いますが、その言いがかりの論理がいまだにけっこう根強く生きているのに、それに正面から反論せずに「あくまで戦没者の追悼です」「戦没者の追悼は各国の内政問題です」とか言っててもそれは無理があると思います。
日本の戦争は、ヨーロッパ諸国同士の植民地競争のような、「どっちもどっち」の戦争とは認めてもらえていないのです。極論すれば、テロ国家とかならず者国家みたいに扱われているわけですよ(笑)
原爆を落としたアメリカのほうが、よっぽどならず者だと思いますけどね。
結論としては正直屋さんのおっしゃる論理が正しいと思うのですが、そういう正しい論理の枠内で捉えてもらえる状況にないのが現状なんじゃないでしょうか。そういう状況で靖国神社に参拝するというのは、最初から「論戦」を仕掛けているのに等しいと思うのですよ。靖国参拝は、「日本はテロ国家ではなかった。ふつうに自国の生存のために戦っただけで、お互い様だ。文句あるか?」っていう主張を、明確に伴う行為だと思うのです。
素晴らしい考察だと思います。
私が思うのは、靖国問題とは、靖国参拝にこだわりながら(否定でも肯定でも)
自分たちが置かれている状況を直視し難く、逃げている日本人の精神性を象徴した問題ではないか? と、考えてみました。
コメントありがとうございます。
基本的には、靖国神社は国内問題である。そして、天皇の名で死んでくれという施設である。憲法には政教分離原則が存在する。 それにもかかわらず、靖国神社に公的性格を与えようとするのは、立憲主義の否定であり、国家神道の強制を狙うものである。 私は、天皇の名では死ねない。日本を反近代の祭祀国家に逆戻りさせるのはおかしい。 祭祀とは特定の共同主観を込めた宗教的象徴行為である。 祭祀を公的な存在にするということは、直ちに共同主観の強制に繋がる。 アイヌの熊送り、殷・アズテクの他部族生贄、マヤ・インカの自己犠牲・自己生贄、自然神への奉納はいずれも多神教としての自然神に対する賄賂のバリェーションである。 歴史・伝統・文化から自分たちが正統と考える国家神道的イデオロギーを恣意的に抽出し、合法的統治の下敷きにある正当性・妥当性・有効性の観点から物事を判断せず、血統的・系譜的レジテマシー正統にこだわり、それらを自ら奉じない者を異教・異端と言論弾圧する。 靖国を公的存在にするということは国家がそのような方向を目指すということだ。 他国に干渉されるから靖国参拝に賛同するということは、自我を処刑し、天皇に自己犠牲をささげようという究極の自虐である。