其の壹
人はどこかに頼りたい。それは恐らく生存本能である。頼るとなると人は過去に頼る。未来だって過去を材料にした類推に拠って導きだされたものに過ぎないだろう。「歴史に」と言えば聞こえは壮大、威厳に満ちて良いが、私の感覚で云えば、今と言った瞬間より前は過去、つまり歴史なのである。頼光、卑弥呼、武内宿禰、大久保清も西郷隆盛も、ケーシー高峰も、遮光器土偶も矢吹丈も、熊さん八つぁん、褌、食い逃げ、うどんや赤線に至るまで、挙げれば切りはないが、現時点以前に於ける現象、これは歴史なのである。その中から自分と同じ考え、似たような気分はないか、今の自分の考えを内包してくれる、包摂してくれるものはないかと考えることは、むべなるかなと思うのである。母は偉大である。
過去も知覚出来るものしか知覚することは出来ず、知覚出来ないもの、知覚していないと理性が言い張るものも、やはりその実あったのだろうと思う。
さて、いま、「考える」と言ったときに、これまでのどこにも回収されないかも知れない、また未来に於いても、今の自分ぐらいにしか、包摂されないかもしれない「あること」を思いついて、言うか言うまいかとなったとき、その判断に孤独が伴わぬことがあろうか。
参照してみたくなった、参照するべきだと自分に課した伝統の量、伝統の件数が多ければ多い程、自分の知る領域が広ければ広い程、その暖かい海から離れて自分の意見を言うというとき、裸一貫即死の危険性を孕んだ孤独を引き受ける決意の度合いは強まる。そしてその気配を背中どころか全身で引き受けながら、どこか「自分の考えが正しいかもしれない。少なくとも自分だけはそう思うということを否定し切れない」という、滔々と伝統、歴史の大海原から浜辺に流れ着いたか、水面に浮かび上がったか、そういったある種の強く、根深い自己愛と過去・伝統との二律背反、相揺れ動く心理の泥沼から、自己愛によって飛び出したものでなければ、私は信用出来ない。
さて、その自己愛を圧倒的な歴史の中に消し去りたいという、またこれも私自身共感せざるを得ぬ感情と、瞬間的にしか消すことが出来ない自己愛(自己の持続性と言い換えてもよいかもしれない)を衆目にさらすとき、自己の中で燻らせるのみでは我慢が利かなくなったとき、だらしなくか、悠然とか、勇ましくかは、この際問題ではなく、衆目はこの発揮された自己愛に対して、態度を表明するなり、本人の心の中に吊り下げておくなり、その他何某かの判断を、眼前の他人のある主張に対して下す。これは科学で言うところの、作用反作用の理の御触書を俟つまでもなく、それは衆目各人の皮膚の内外を問わず、三次元か四次元か、将又、五次元以上かは私には解らないが、どこかの座標に起こるのである。
そこで気をつけなければならないのが、他人の行動に対して「解った解った」と、手を抜いて応じる。これが昨今云うところの所謂、「レッテル貼り」である。勿論忙しい折に、構って居れない話題・領域に関して、「こう思うがどうか」と問いを、横車が飛び込んでくるように投げかけられれば「答えればいいんでしょ!」と憤慨しながら短文投げつけ、再び自己の生活の軌道に戻るというのは、人情として、私は俄然首肯出来ることであるし、それ自体を私は否定するものではない。まだ親切な方だ。だが此所にあって一点気をつけなければならないのは、「自分はあまり考えなかった」「自分は彼(主張者)のエネルギーを受け止め切っていたか」という自戒がそこにあるかという点である。
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