其の貳
「レッテル」と云って、ステッカー、シール、ラベルというものが類義語として挙げられるのだと思うが、少なくとも三次元物体に対し、ほぼ二次元のそれらを貼るときに、昨今流行の携帯電話に貼る液晶保護シールというものを思い浮かべて頂けると幸いであるけれど、あれを当該画面に貼るという段になって、皆々様気をつけていらっしゃるのは、そのシールと画面との間に気泡が入らぬか、塵芥の類を挟み込まぬかどうかということであろうと思う。
また、もう少し抽象的に申せば、立方体に、球体に、モアイ像に仏像に対し、そういうレッテルなどの亜二次元体を接着せしめんとするときに、凹凸に二次元体が対応し切れないで、隙間、これは生じること必定である。
もし仮に、現代において宗教の代わりに鎮座ましますところの、一般に流布されている「科学」のように、身勝手な前提条件を布いて、その物体の表面積を隈無く覆えるという、重宝なステッカーなり、レッテルなりがあったとして、それを気泡を生じず、ステッカーと貼られる対象物との間にいかなる障害物もこれはないものとするという条件を布き得たとして、それが叶ったと仮定しよう。しかしこれ叶ったとて、三次元物体のすべてを覆えたかどうかは、これは疑った方が良いどころか、ちゃんちゃらおかしい御為ごかし、自己催眠、自己欺瞞の類いであることは言うまでもないだろう。実際に戻せば三次元物体殿も、種々ご都合があるようで、材質は様々であるし、埃が正体という場合もあれば、その置かれた場所などはまた、それは意味や理由があるのである。表面にステッカーの糊や接着剤が、多少なりとも幾許か、染み込んでいくからこそ、そのレッテルはレッテル足りえるのであるけれど、その中身や、俯瞰か分析しか出来ない本当の意味での、全体やら本質と離れたものしか、やはり添付し得ないのではないか。
「レッテル貼り」は即ちこれはひとつの殺害である。昆虫の標本であれば何かの毒を注射して、その昆虫の命を奪う代わりにその老化をある時点で留め、それを箱かなにかに入れてしげしげと眺め、「なるほど兜虫というのは、このようなものであるか」と眺めているわけである。これに至って気をつけなければいけないのは、「自分は、少なくともある一瞬を抜き出したものを、享受しているのに過ぎない」と云う自戒と、相手を標本に仕立てた、つまり「私が殺した」という、罪の意識とまではいかなくとも、自覚ぐらいは持っていてもいいのではないかと思う。それぐらいの自覚を持って、ふとしたときに笑ってみせるような人間が私は好きである。
人間は如何に生きようとも、自己以外の他を殺し、利用せずにその生は送れはしないのであって、「そんなことはない」と豪語する御仁にあっても、その大腸小腸の中では、毎日微生物が攻防を繰り返している。自分の腹の中の微生物に「止めよと」言ってみてもいいが、それは彼らの生活を殺していることになるのであって、「完全」なる、潔癖など、無罪など、ちゃんちゃらおかしい絵空事である。
そこにあって人間にのみかは解らないけれど、どこかの誰かに賜った大発明、才能は、話すこと、関わること、これらを止めぬことである。他人との関係を止めぬこともこれ又然りであるけれど、自分との関わり、自分を構成してきた分断しがたい過去との関わり、これを止めぬことである。自分の貼った物がどれだけ価値のあった物か確かめるぐらいは、貼る自由と同時に覚悟してもらいたいものではないか。
レッテル、シール、ラベル、ステッカー、何でも良いけれど、それらは作った者が必ず在るのであって、その材質や、インクの配合、糊の成分比、図柄の意匠、発注の数やそれを作成するに至る、妥協や意気込みに至るまで、そのひとつの物に付随して、前提としてある意思は多岐に渡る。そしてそれは紛れもなく「在る」のである。
だからこそ、質の良いレッテルと、そうでないレッテルがあり、貼られる対象に見合ったレッテル、的を射たレッテルというのはあり得ることである。ことそれを人間に貼ろうと思えば、またこのレッテルを自分でカスタマイズするか、材料を調達して、企画段階から前例となる歴史その他と精錬をしあって、どえらいものに仕上げておく、これを貼られた方はどこか「参ったな」と笑ってしまうものだと、私は思うのである。
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