少数派の気構え
- 2014/6/23
- 文化
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私が私であるということは、自分が考えねばならぬ
人権、自由ということについて何処彼処でありとあらゆる方面から声高に叫ばれているわけですが、昨今いろいろなところでセクシャルマイノリティの方々の「権利を、自由を認めよ!」とか、「差別をなくせ!」という声を耳にする事が皆さんもあると思います。
テレビのバラエティ番組に戸籍上男性だけれど女性の格好をして、振る舞いも女性的な人達が頻繁に登場する近年の所謂「おネエブーム」だとか言うのがありますといわれて見れば、「最近どこ行っても洋式便器しかないなあ」とかいう程度の流行に疎い私でも、「ははあそういうお人のお顔を広告なんかで確かによくお見かけしますわい」と感じます。振返ってみますと、幼い頃テレビで観ていた場面では、外国のニュース、アメリカの、ニューヨークだとか、サンフランシスコだとかだったと思いますが、ゲイパレードの様子を遠い国での出来事として映像で見る、という程度であったと思います。芸能人でも当時は池畑慎之介(ピーター)、おすぎとピーコ、美輪明宏、あとはそのまんま東のそっくりさんでおなじみ日出郎ぐらいだったと思いますが、今やタレント業の一つのジャンルとして構えられているほどで、雨後の竹の子のごとくそういった人々が出てきているのは、それを歓迎する風潮があるからなのでしょう。例えば「自分が性的な要素にかぎらずマイノリティである」と感じている人々が、どこか彼、彼女らに自分の気持ちを仮託するような心情が、潜在的にあって彼、彼女らを歓迎しているのかもしれません。
しかし、そういったセクシャル・マイノリティ(性的少数者)の人々の「人権、自由を認めよ!差別するな!」という声には違和感を覚えざるを得ません。まず、認めるといった場合、他人、もしくは法的に認めて欲しいということになると思いますが、自分の性的な指向を他人に認めてもらうということはどういうことなのでしょうか。彼らはどうしたら満足なのでしょうか。
私はもちろん他人の要求をすべて汲み取れるような仏のような度量もないので想像がおぼつかないと思いますが、彼ら自身も実際のところ、分かっていないのではないでしょうか(往々にして某かの運動があるときに、声の大きな性格の激しい人間が求心的役割を持ち、その周りの人々は「まあ、否定されるよりは、認められたほうが、いいかなあ」というぐらいの態度であるという状況はここにも当てはまるのだとはでしょうが)。認められるといったとき、仮にまずセクシャル・マイノリティの方々にかんする法整備等が行われて、彼らが一応の満足を得る結果を得られたとします。良かった、嬉しい、超ハッピー、と新宿2丁目辺りはもう連日大フィーバー大騒ぎということになるでしょう。
しかし、少し時間が経ったある日、ある所でロリータ・コンプレックスの人が手を上げて、「私の人権どうなってるでしょうか…」と小声で言い出したらどうでしょう。更にまた、「私仏像にしか欲情できないんです。いえ、愛しているんです。観光客の見世物になんかしておきたくない。分かる人達だけで独占したいんです…」とか、「私はJRの自動改札機に常に触れていないと気が狂いそうで…あの、ICカードをタッチするところが特に好きで…」などという、インターネットで検索してみると40人に一人だとか、20人に一人、世界に一人というようなセクシャルマイノリティの方々と比べても人類規模で見ても圧倒的超少数派の人が出てきた時に、セクシャルマイノリティの人たちだって彼らに、「あんまり迷惑かけんなよ」かつ「勝手にしろよ」と言うんじゃないでしょうか。私はセクシャル・マイノリティの方々に対して、「あんまり迷惑かけんなよ」かつ「勝手にしろよ」と思っています。しかしこのようなことは差別でもなんでもないのです。他人であれば当たり前のことで、セクシャル・マイノリティの人々が差別を受けていたり世間的に認められていないというのは全体に占める割合がヘテロセクシャルと比較して少数派だからです。世間一般の大体の人は自分の生まれ持った性を自覚し認め、異性を求めます。自他に性を求めるときに世間一般の形と違うということで奇異の目で見られます。当たり前じゃありませんか。知らない、思いもよらない価値観に実際触れたらそれがなんであれびっくりします。そんな目が何だというのですか。堂々と邁進なさってください。
コメント
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雑ですね。
「マイノリティ」であるあなたは、この文章を書くことで「セクシャルマイノリティとあなたが呼ぶ人たち」のことをどうしたいのでしょうか?
また、そもそもなぜ、セクシャルマイノリティの人たちは、
あなたみたいな求道者でなければならないのでしょうか。
求道者に「ならなければならない」のか。
あなたは確かに「マイノリティ」なのかも知れませんが、
かといってそれはあなたがセクシャルマイノリティのことを同志のように語れるということは意味しないでしょう。
人権だの権利だのと声高に仰ることもさることながら、それを普段生活の場で、苦痛であるとか悲しいとか、言う暇があれば自分をどんどん磨いて下さい。
苦痛であるとか悲しいとか、言える人?
私は自分のつらさを他人に伝えられるだけ、その人は偉大だと考えます。つまり周りの人たちに助けを求められるということです。
でも、自分のつらさを伝えられないまま引きこもり続ける人だってたくさんいるでしょう。確かに、みんな同じく辛い中生きてるんだから、その「違い」を磨いていこうよ、ということは出来ます。でも、出来ない人はどうしますか。というか、出来たら悩んでないという話です。引きこもってれば、その人にとっても社会にとっても良いことですか。マジョリティである社会にとっては屁でもないでしょう。
あなたのような、見える問題、だけを語る人は危険じゃないでしょうか。見えない問題は、ないことにされますから。
苦痛とも悲しいとも言えない人たちの心を謙虚に汲み取っていく、その思考の方向性がマジョリティのあり方だと私は思います。あなたは自分のことをマイノリティだと言いました。私は、あなたがマイノリティでありたいのであれば、それでいいと思う。そして、そう思えるあなたはとても強い人だと思う。また、あなたは自分のありたいようにいられる、いることができるという点で、ある種のマジョリティともいえるかもしれません。
でも、どういうわけかそれが出来ない人たちが沢山いるから何とかしてくれー、って声をあげてる訳じゃないですか。別に自分を特別だと認めてほしくて人権云々いっている訳ではないでしょう。
一目をはばからず権利を訴える人たち、その壮絶な覚悟を想像すると、ぞっとします。人をそこまでかりたたせるほどの差別ってすごいんだろうな、と単純に思います。マジョリティ側に所属する私は、それが一体どのようなものなのかきっとわかりませんが。
私は、抑圧者と被抑圧者の関係って流動的で、自分の立場は絶対化できないと思ってます。
だから、マイノリティの人たちだけに変化を要求するのではなく(マジョリティ側が無意識に要求していることが多いだけに)、むしろ積極的に自分が変わろうとしたいと私は思います。
違う立場境遇の人間同士でも、そうやって生きていきましょうよ!
権利を国が、社会が認めてくれても結局苦しみは次々とやってくる。
マイノリティにもマジョリティにも平等に。
だから、自分の弱点と付き合い、そこに愛着を見出す著者の姿勢に僕は共感します。