少数派の気構え
- 2014/6/23
- 文化
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悩みは自分の特権であり、考えを切り出す刀である。
セクシャルマイノリティの皆さんの主張を認めるのが是、ということになれば、私だって言ってみたいことは山ほどあります。薄毛、(約束された)禿頭、重喫煙者、昼間の飲酒癖、何を着ても貧乏臭い、気違い、音楽指向的少数者、短足、うっかり者、田舎者、落第者、笑いのツボマイノリティ、等々私は調子に乗って主張し始めるでしょう。そういったものをすべて世に認めさせ、「権利」や「認知」を勝ち取り倒すことによってあらゆる特徴という特徴の価値を平均化させてしまい、逆に「人権なんて大したもんじゃないな」とか、「やっぱり少し区別ぐらいあったほうがいいんじゃないの」という風潮を全土に巻き起こすまで活動し続けるでしょう。
真面目な話、色々な悩み苦しみを逐一細かに驚くなとか認めろとか、知っていて欲しいと他人を頼るのは限界があります。すぐ訪れます。ちなみに上に挙げたものは私の特徴ですが、そういう自分の状況を他人に受け入れて欲しい、認めて欲しいなどとは思いません。私は第一そういう性質が抜き難くあって、どうにかしようと思うことも今までの人生の場面においてないではなかったのですが、なかなか変わることが出来ません。そのみっともなさを提た状態でありながらも、なんとか自分と自分の関わる人なり会社なりの状況を、出来るだけ良いものとしたいと考えます。そうするには、具体的に如何に振る舞うべきかということこそエネルギーを割くべきであると考えていて、その思考の副次的産物として他人への気遣い(気違いでなく)を学ぶことが出来ます。また、何か自分よりある分野において長けている人があればその人に任せることにしよう、その中で譲れない、任されたことを、自分なりに取り組んでいこうとすれば、自分の活かしどころということも見えてくるはずです。実はこの行為は、社会に取り込まれているように思われるかもしれないのですが、私が考える唯一の自己防衛策であるのです。しかも、自分にそういう特徴が有ったからこそ今、自分がこのような思考をしていると思えば、コンプレックスは単なる要素として愛らしくこそあれ、何か別の存在になって、人生を取り替えようとはもう思わないのです。
皆さんご存知のこととは思いますが、他人を変えようとするのは思ったより大変なことで、自分が変わるほうが気楽です。自分が状況に応じて毫も変わることが出来ないというのはおかしな話です。なぜなら、自分が変わらないでいておいて、代わりに社会や他人を変え、自分を賛美させようとして、頑として顧みない譲らないという姿勢は、反対の立場に立つ想像すら拒否するということから見ても迷惑な話です。奇異の目で見られるくらいのことは、よしとしようじゃありませんか。変な目で見られたとしても、セクシャルマジョリティを迫害してどうするんですか。彼らだって当たり前過ぎて苦しいかもしれませんよ。敵を作ることでしか自分たちを自分たち自身が認められないとしたら悲しいことです。もちろん否定の集合によってある像を導き出すやり方もなくはないのでしょうが、少なくとも友達は、型通りの友達を求めなくとも自分自身が自分と関わることを許す対象が減るでしょう。認知される日は遠ざかることでしょう。もしセクシャル・マイノリティの方で強烈な魅力がある人がいれば、別に何の前知識がなかろうとも人は寄ってくるものだと思います。
誤解のないように申しますが、別に私はセクシャル・マイノリティの方々を「断罪せよ」とか「迫害せよ」と申し上げておるのではないのです。その性的指向を謳歌している方には、もはや何も申しますまい。それを苦しさと捉えている方がいらっしゃれば、それがその人にとって変質し難い、とても根の深いものであるとするならば、そういう人間の集まる処に行くかインターネットを使って交流するなどそういう行動を取られてはいかがでしょうか。私のような人間に比べたらセクシャルマイノリティと言えど圧倒的に多数派です。すぐ気の合う仲間が見つかることでしょう。悲嘆にくれる、憎悪を自分を含めたどこかにぶつけるなどということをするよりも、自分に更に磨きをかけ、人間的に魅力を増大させていただければ、市井の人々の目もどんどん変わっていくと思うのです。くよくよしている人間にはなかなか人は近付き辛いものです。ある人に対してできることが、してあげられることがないと思えば、人間近づくことは疎か、視界に映らないのだと思います。
思えばTokyoMXテレビ「5時に夢中!」でのマツコ・デラックスさんの発言などを観ていると、なるほど一般の人々の知らない苦労をなさって来ただけあって、懐の深いご発言など、他の放送関係者が言いにくいような発言をよくなさっているようにお見受けします。もちろんあの方のように振る舞えないで苦しい思いをされている方もいらっしゃるのでしょう。しかし、苦しみというのは個別的、特別であることは確かですが、自分の中に閉じ込めて強く思えば思うほど強まるもので、その苦しさを他人と分かち合い、ある一つの状態であるというようにみなしてしまえばもう苦しさなど半分抜けかかった状態になるものだと思います。
コメント
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雑ですね。
「マイノリティ」であるあなたは、この文章を書くことで「セクシャルマイノリティとあなたが呼ぶ人たち」のことをどうしたいのでしょうか?
また、そもそもなぜ、セクシャルマイノリティの人たちは、
あなたみたいな求道者でなければならないのでしょうか。
求道者に「ならなければならない」のか。
あなたは確かに「マイノリティ」なのかも知れませんが、
かといってそれはあなたがセクシャルマイノリティのことを同志のように語れるということは意味しないでしょう。
人権だの権利だのと声高に仰ることもさることながら、それを普段生活の場で、苦痛であるとか悲しいとか、言う暇があれば自分をどんどん磨いて下さい。
苦痛であるとか悲しいとか、言える人?
私は自分のつらさを他人に伝えられるだけ、その人は偉大だと考えます。つまり周りの人たちに助けを求められるということです。
でも、自分のつらさを伝えられないまま引きこもり続ける人だってたくさんいるでしょう。確かに、みんな同じく辛い中生きてるんだから、その「違い」を磨いていこうよ、ということは出来ます。でも、出来ない人はどうしますか。というか、出来たら悩んでないという話です。引きこもってれば、その人にとっても社会にとっても良いことですか。マジョリティである社会にとっては屁でもないでしょう。
あなたのような、見える問題、だけを語る人は危険じゃないでしょうか。見えない問題は、ないことにされますから。
苦痛とも悲しいとも言えない人たちの心を謙虚に汲み取っていく、その思考の方向性がマジョリティのあり方だと私は思います。あなたは自分のことをマイノリティだと言いました。私は、あなたがマイノリティでありたいのであれば、それでいいと思う。そして、そう思えるあなたはとても強い人だと思う。また、あなたは自分のありたいようにいられる、いることができるという点で、ある種のマジョリティともいえるかもしれません。
でも、どういうわけかそれが出来ない人たちが沢山いるから何とかしてくれー、って声をあげてる訳じゃないですか。別に自分を特別だと認めてほしくて人権云々いっている訳ではないでしょう。
一目をはばからず権利を訴える人たち、その壮絶な覚悟を想像すると、ぞっとします。人をそこまでかりたたせるほどの差別ってすごいんだろうな、と単純に思います。マジョリティ側に所属する私は、それが一体どのようなものなのかきっとわかりませんが。
私は、抑圧者と被抑圧者の関係って流動的で、自分の立場は絶対化できないと思ってます。
だから、マイノリティの人たちだけに変化を要求するのではなく(マジョリティ側が無意識に要求していることが多いだけに)、むしろ積極的に自分が変わろうとしたいと私は思います。
違う立場境遇の人間同士でも、そうやって生きていきましょうよ!
権利を国が、社会が認めてくれても結局苦しみは次々とやってくる。
マイノリティにもマジョリティにも平等に。
だから、自分の弱点と付き合い、そこに愛着を見出す著者の姿勢に僕は共感します。