本サイト2014年12月24日に、小浜逸郎氏の記事(『永遠のゼロ』を私はこう見る)が掲載されました。その記事の中で、2014年9月14日に掲載された私の記事(「永遠の0」にとんでもない難癖をつけてしまった京都大学大学院教授)について言及がありました。
私のような素人に、小浜氏のような「本物」の批評家が丁寧に応えてくださるというのは、望外の喜びです。真摯なご意見、まことにありがとうございます。
議論を深める
小浜氏は、〈木下氏は、藤井氏の『永遠の0』批判に対して言論人が公式に論じることを求めていますが、ここではそれはしません〉と述べておられます。
ですが記事には、〈私も木下氏の藤井批判にほとんど賛成ですが〉とか、〈例のエッセイは、慣れないことに手を出してつい軽薄なことを言ってしまった「ミステイク」であるとみなします〉と記載があります。その記載内容で、私には十分です。
小浜氏の『永遠の0』に対する考察も、素晴らしい内容です。ですから、異論や反論というより、さらに議論を深めるために二点ほど論じてみようと思います。ここで私は、建設的な議論をしてみたいのです。
一つ目の論点:男女の倫理観の違いについて
まず、一つ目の論点として、女性的な倫理観と男性的な倫理観の違いについて考えてみます。小浜氏は、次のように書いています。
戦後の中心的な価値観は、「いのちの大切さ」ということになり、戦前・戦中の価値観では「いのちを捨ててもお国のために闘うべきだ」ということになるでしょう。そうしてこの二つの価値観が、ほぼ、女性的な倫理観と男性的な倫理観とにそれぞれ対応することも納得してもらえるでしょう。
こういった見方もあるとは思いますが、私は別の視点に立っています。男女の違いには、いのちの判断における共同体の比重に差があると思うからです。恋に狂った女性の振る舞いや、子を想う母の強さを見せられたとき、単に女性的な倫理観は「いのちの大切さ」だとは私には言えないからです。
そもそも「いのちの大切さ」と言ったとき、誰の「いのち」なのかという大きな問題があります。まずは、自分と他者という「いのち」の重みの区別があります。次に、他人の範囲によって「いのち」の重みに区別が生まれます。
コスモポリタン的な考えが胡散臭いワケ
人間のいのちの価値は、すべての人が平等というコスモポリタン的な考えがあります。こういった思想がうさんくさいのは、この思想を主張する当の本人が、本当はすべての人間のいのちを平等には感じていないからです。何故そんなことが分かるのかというと、地球の裏側の見知らぬ人間の死に対しても、自分や身近な人の死と同じように感じていたとしたら、その人の精神が持たないはずだと考えるからです。
ですから、仮にすべての人間のいのちを平等と考える思想がありえるなら、それは自身を含めたすべての人間のいのちを無価値と考えている厭世家の場合だけでしょう。このような人間は、かなり稀少ではあるでしょうが、存在する可能性はあるでしょう。ですが、あまりに特異なケースなので、ここでは検討の範囲外としておきます。
自分と他人のいのちの違い
まずは、自分と他者のいのちの違いからです。自分のいのちと他者のいのちは、自分にとってまったくの別物です。これは当たり前に感じられるかもしれませんが、哲学的には非常に深い問題がひそんでいます。その深淵にはまると長くなってしまうので、ここでは必要最小限の説明に留めておきます。
自分のいのちは、世界が自分の眼からしか観ることができないという端的な事実からして、極めて特別なものです。自分のいのちの終わりは、自分の思考の終わりであり、自分の世界の終わりです。そのため自分のいのちは、端的な事実として、他者のいのちと明確に区別されるのです。
ですから、自分のいのちだけを特別視する思想がありえます。一般的には、エゴイズムと呼ばれる思想です。頭の良いエゴイストは、自分がエゴイストだとは言わないものです。ですから、実際には世の中にかなりのエゴイストが存在すると想像することもできます。
エゴイストは、「いのちの大切さ」を十分に知っています。しかし、それは自分のいのちに限定されていることは明らかです。そういった意味で、純粋なエゴイストについて考えても、あまり議論を深められるとは思えません。ですから、論じるべきは、「いのちの大切さ」が他者のいのちに関わっている場合になります。
コメント
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木下さんの、「男女融合の思想は、すでに特攻隊員の遺書に示されているので、『永遠の0』における宮部においてはじめてそれが示されたわけではない」という意見に賛成します。私自身、自分がブログに書いた「究極の文章」という雑文において、家族と二度と会えない哀しみを胸の奥にしまいこんで敵艦に突撃していくことを決意した隊員の複雑な胸の内を、私なりに論じ、木下さんと同じような感慨を抱いたので、木下さんのおっしゃることがよく分かります。小浜さんの文章をおおむね受け入れながらも、どこか違和感が残る、という私なりの感触を、木下さんがうまく言い当ててくれたような気がしています。おそらく、小浜さん自身が、特攻隊の遺書か、あるいは特攻経験者の言葉に直接当たっていただいて、それに対して何をお感じになるのか、率直に述べていただくのがよろしいのではないか、と私は考えます。尻馬に乗ったような形で、木下さん、小浜さんに申し訳ないような気もしますが、削除することなく、アップしてしまうことをお許しください。
美津島明さん、コメントありがとうございます。
私は、誰か一人でも私の意見を真剣に聞いてくだされば良いなぁと思って文章を公表しています。美津島さんのように、真剣に読んでくださり、コメントで私の意見に賛成までしていただきとても嬉しく感じております。
また、「究極の文章 ーーー特攻隊員の遺書について (イザ!ブログ 2013・9・19 掲載)」を拝見させていただきました。素晴らしい文章です。読んでいて、ウルッときてしまいました。特に、「~の箇所の美しさはまるで魔法のようです。」という表現は見事だと感じました。
今後とも、よろしくお願いいたします。
>そもそも現代の日本に、「本物」がいるのかどうか知りたいのです。
木下さんのこの問を、「倫理の本質」を知る「本物」がいるのか、と解するならば、非常に重たい議論になってきます。
倫理について、神道では「言挙げせぬ」、仏教では「不立文字」、釈尊は「四十九年一字不説」、山本常長は「消却せよ」、これらはいずれも同じことを言っているように感じます。「言ったらおしまい」といっているように思えます。「知の情意に対する越権」はやめなさいといっているように解されます。こうなってくると、倫理について議すること自体が無意味ということになって来るのですが・・・。それでも語らねばならないのが倫理。『言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒』
eeggeさん、コメントありがとうございます。
回答させていただきます。
> 木下さんのこの問を、「倫理の本質」を知る「本物」がいるのか、
> と解するならば、非常に重たい議論になってきます。
私が使用した「本物」という言葉は、そのような意味ではありません。
簡単に説明させていただきます。
藤井聡の『永遠に「ゼロ」?』では、架空の物語の登場人物の行動を、家族そろって大爆笑する場面が出てきます。これは、実際の類似例(復員軍人と戦争未亡人の再婚など)についての嘲笑にもなってしまいますので、人の道に外れた行為なわけです。
人間ですので、間違いを犯すことは往々にしてあるものです。問題は、間違いを犯した後の行動になります。そのとき、どのような仲間がいるのかが重要になってきます。
仲間や尊敬する人物が間違ったことをしたとき、それを注意するのは難しいことです。しかし、その難しいことができないのなら、そんな思想に何の意義があるのでしょうか?
小浜逸郎氏は、『Voice』特別シンポジウム「2015年の安倍政権を占う」で藤井聡と対談しています。にもかかわらず、〈私も木下氏の藤井批判にほとんど賛成ですが〉と書いておられるわけです。私に賛成しても、小浜氏にデメリットはあっても、メリットはまったくないわけです。ですから、私は小浜氏を「本物」の批評家だと本記事で述べているのです。
藤井のメチャクチャな意見に対し、間違っていると言えないようなら、そんな人たちは「本物」ではない(と私には思える)ということです。真正保守ごっこを勝手にやってろと思うだけです。
倫理については、私は「言ったらおしまい」とは考えてはいません。
私は、「言い切ったらおしまい」であって、「言い続けなければいけない」ものだと考えています。つまり、議論しあって、間違っていたら修正すべきものだということです。
ユダヤ教やキリスト教などのように、絶対神の言葉を出してくる思想は、少なくとも私にとってはあまり上等だとは思えないのです。
よくわかりました、丁寧な応答有り難うございました。これで、私は、このスレッドにおける貴方の言説に、丸ごと賛同することができます。
山本常長は山本常朝でした訂正します。