英霊の言乃葉に示されている思想
靖国神社の遊就館内の売店では、英霊の遺書や書簡をまとめた冊子『英霊の言乃葉』を購入することができます。英霊の言葉には、まさしく人倫性の融合態と呼ぶべき思想が示されています。
二十代前半で逝った英霊の言葉を、少しだけご紹介させていただきます。
≪海軍大尉 安達卓也 命≫
私はこの美しい父母の心温い愛あるが故に君の為に殉ずることが出来る。≪海軍大尉 岡部平一 命≫
われらは常に偉大な祖国、美しい故郷、強い日本女性、美しい友情のみ存在する日本を、理想の中に堅持して敵艦に粉砕する。≪海軍大尉 林市造 命≫
泰平の世なら市造は、嫁や子供があって、おだやかな家庭の主人になっていたでしょう。けれども、国をあげて戦っていたときに生まれ合わせたのが運命です。日本に生まれた以上、その母国が、危うくなった時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。そのときは、やはり出られる者が出て防がねばなりません。
ここには、美事な思想が示されています。驚くべきことに、本当に驚くべきことに、彼らは二十代前半という若さにおいて、この思想を実践し死んでいったのです。
人間の真価
『永遠の0』の登場人物である宮部久蔵は架空の人物ですが、彼の思想は新しいものというわけではなく、実際に英霊たちが持っていた思想なのです。その思想を小浜氏の言うように、「男女双方が持つ人倫性の融合態」だと考えるならば、それは家族と国家をつなぐ思想だとも言えるでしょう。抽象的な論理性と、具体的な感情性をつなぐ思想だとも考えられます。
家族と国家は補完関係にあります。しかし、ときとしてそこには亀裂が走ります。特に戦争などの危機的状況において、それは顕在化します。そこで、その世界の登場人物は苦悩することになります。そのとき人は、何らかの選択を決断しなければなりません。
その決断において、その人間の真価が問われることになります。そして、そういった人物たち(実在・架空を問わず)についてどう考え、どう語るかによって、この人間の真価が問われることになるのです。
コメント
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木下さんの、「男女融合の思想は、すでに特攻隊員の遺書に示されているので、『永遠の0』における宮部においてはじめてそれが示されたわけではない」という意見に賛成します。私自身、自分がブログに書いた「究極の文章」という雑文において、家族と二度と会えない哀しみを胸の奥にしまいこんで敵艦に突撃していくことを決意した隊員の複雑な胸の内を、私なりに論じ、木下さんと同じような感慨を抱いたので、木下さんのおっしゃることがよく分かります。小浜さんの文章をおおむね受け入れながらも、どこか違和感が残る、という私なりの感触を、木下さんがうまく言い当ててくれたような気がしています。おそらく、小浜さん自身が、特攻隊の遺書か、あるいは特攻経験者の言葉に直接当たっていただいて、それに対して何をお感じになるのか、率直に述べていただくのがよろしいのではないか、と私は考えます。尻馬に乗ったような形で、木下さん、小浜さんに申し訳ないような気もしますが、削除することなく、アップしてしまうことをお許しください。
美津島明さん、コメントありがとうございます。
私は、誰か一人でも私の意見を真剣に聞いてくだされば良いなぁと思って文章を公表しています。美津島さんのように、真剣に読んでくださり、コメントで私の意見に賛成までしていただきとても嬉しく感じております。
また、「究極の文章 ーーー特攻隊員の遺書について (イザ!ブログ 2013・9・19 掲載)」を拝見させていただきました。素晴らしい文章です。読んでいて、ウルッときてしまいました。特に、「~の箇所の美しさはまるで魔法のようです。」という表現は見事だと感じました。
今後とも、よろしくお願いいたします。
>そもそも現代の日本に、「本物」がいるのかどうか知りたいのです。
木下さんのこの問を、「倫理の本質」を知る「本物」がいるのか、と解するならば、非常に重たい議論になってきます。
倫理について、神道では「言挙げせぬ」、仏教では「不立文字」、釈尊は「四十九年一字不説」、山本常長は「消却せよ」、これらはいずれも同じことを言っているように感じます。「言ったらおしまい」といっているように思えます。「知の情意に対する越権」はやめなさいといっているように解されます。こうなってくると、倫理について議すること自体が無意味ということになって来るのですが・・・。それでも語らねばならないのが倫理。『言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒』
eeggeさん、コメントありがとうございます。
回答させていただきます。
> 木下さんのこの問を、「倫理の本質」を知る「本物」がいるのか、
> と解するならば、非常に重たい議論になってきます。
私が使用した「本物」という言葉は、そのような意味ではありません。
簡単に説明させていただきます。
藤井聡の『永遠に「ゼロ」?』では、架空の物語の登場人物の行動を、家族そろって大爆笑する場面が出てきます。これは、実際の類似例(復員軍人と戦争未亡人の再婚など)についての嘲笑にもなってしまいますので、人の道に外れた行為なわけです。
人間ですので、間違いを犯すことは往々にしてあるものです。問題は、間違いを犯した後の行動になります。そのとき、どのような仲間がいるのかが重要になってきます。
仲間や尊敬する人物が間違ったことをしたとき、それを注意するのは難しいことです。しかし、その難しいことができないのなら、そんな思想に何の意義があるのでしょうか?
小浜逸郎氏は、『Voice』特別シンポジウム「2015年の安倍政権を占う」で藤井聡と対談しています。にもかかわらず、〈私も木下氏の藤井批判にほとんど賛成ですが〉と書いておられるわけです。私に賛成しても、小浜氏にデメリットはあっても、メリットはまったくないわけです。ですから、私は小浜氏を「本物」の批評家だと本記事で述べているのです。
藤井のメチャクチャな意見に対し、間違っていると言えないようなら、そんな人たちは「本物」ではない(と私には思える)ということです。真正保守ごっこを勝手にやってろと思うだけです。
倫理については、私は「言ったらおしまい」とは考えてはいません。
私は、「言い切ったらおしまい」であって、「言い続けなければいけない」ものだと考えています。つまり、議論しあって、間違っていたら修正すべきものだということです。
ユダヤ教やキリスト教などのように、絶対神の言葉を出してくる思想は、少なくとも私にとってはあまり上等だとは思えないのです。
よくわかりました、丁寧な応答有り難うございました。これで、私は、このスレッドにおける貴方の言説に、丸ごと賛同することができます。
山本常長は山本常朝でした訂正します。