他者の範囲としての共同体
大切ないのちの範囲は、他者の範囲の問題になります。他者の範囲の相違は、さまざまな共同体として現れてきます。その相違を考える上で、男女における文化的な差異や、遺伝的な差異が影響します(とここでは考えます)。
例えば、視野については男性が狭く、女性は広い傾向があります。思考回路については、男性はシングルタスク(同時に一つのことしかできない)方式で、女性はマルチタスク(同時に複数のことができる)方式という傾向性があります。
そして、仮説ではありますが、重視する共同体にも異なる傾向がありそうなのです。自分と世界の間には、様々な共同体がありえます。その中でも、人類史を俯瞰して非常に重要視せざるをえない共同体として、家族と国家を挙げることができます。男性は国家という共同体を重視し、女性は家族という共同体を重視する傾向があると言いたいのです。これには、男性が抽象的な論理性を好み、女性が具体的な感情性を好むといったことが影響しているのかもしれません。
共同体のために闘うとき
何らかの共同体を重視するということは、その共同体の成員のいのちを大切に思うということです。そのとき、その共同体の危機において、共同体のための思想が生まれます。極限状況を考えるなら、自分のいのちを懸けても、共同体のために闘うべきときがありえるのです。
ですから、男性的な倫理観が「いのちを捨ててもお国のために闘うべきだ」というものだと考えるなら、女性的な倫理観は「いのちを捨てても家族のために闘うべきだ」というものに成ります。もちろん、これらの分類はあくまで傾向性の問題です。ただ、これらの区別を用いて考えることは、それなりに有益だと思われるのです。
例えば、なぜ女性的な倫理観が、「いのちの大切さ」だと見えてしまうのでしょうか? そこには、家族と国家という二つの共同体における相克(対立する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと)があるのかもしれません。つまり、家族という共同体を重視する側からの、国家という共同体に対する牽制です。家族が国家の構成要素の一部である以上、この牽制はそれなりに有効たりえます。
国家と家族
国家と家族は補完関係にありますが、ときとしてズレが生じます。このズレの問題は、人類史を貫く大テーマでしょう。
古くは、ソポクレスの『アンティゴネ』を挙げることができます。オイディプスの娘アンティゴネは、国禁を犯して反逆者となった兄の葬礼を行ったために石牢に幽閉されてしまいます。短い作品ですので、結末が気になる人は読んでみてください。
一方、日本では古くから忠孝が論じられてきました。主君への忠節と親への孝行の問題ですが、国家と家族における問題の同系統と見なすことができます。二つの共同体の倫理が相克するとき、人間は悩み苦しむことになります。
『日本外史』には、次のような平重盛の言葉があります。
忠ならんと欲すれば則ち孝ならず。孝ならんと欲すれば則ち忠ならず、重盛の進退ここに窮る。生きてこの慼(うれえ)に覯(あ)はんよりは死するに若(し)かず。
『アンティゴネ』にしろ『日本外史』にしろ、二つの倫理観が相克するとき、自らの死をも覚悟して事に臨むという精神性が示されているのです。
二つ目の論点:人倫性の融合態について
さて、二つ目の論点として、人倫性の融合態という概念について考えてみましょう。小浜氏は、次のように書いています。
宮部久蔵が体現している思想は、戦後のイデオロギーでもなく戦前・戦中のイデオロギーでもない。それは、生活を共有する身近な者たちが強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認するという考え方です。そこに私は、戦前を懐旧する保守派思想にも、国家権力をただ悪とする戦後進歩思想にも見られなかった新しい思想を見るのです。それは男女双方が持つ人倫性の融合態だと呼んでもよいでしょう。
この洞察は素晴らしいものですが、一つだけ気になる点があります。それは、この人倫性の融合態が、「新しい思想」なのかという問題です。私は、これは新しい思想なのではなく、日本史において連綿と続く思想だと言いたいのです。
日本では古来より、万葉集や勅撰和歌集などによって和歌が尊ばれていたことは注目に値します。天皇や上皇の命により編集された歌集の存在は、日本という国家を特徴づけています。それらの和歌には、身分の差を超えて、人間の感情がぞんぶんに詠み込まれているからです。
ちなみに戦前・戦後のイデオロギーの変化を考えるなら、国家への嫌悪感から、男性的な忠誠心が日本という国家ではなく、(過労死をもたらすほどに)会社という組織体に強く作用している側面を指摘できます。
コメント
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木下さんの、「男女融合の思想は、すでに特攻隊員の遺書に示されているので、『永遠の0』における宮部においてはじめてそれが示されたわけではない」という意見に賛成します。私自身、自分がブログに書いた「究極の文章」という雑文において、家族と二度と会えない哀しみを胸の奥にしまいこんで敵艦に突撃していくことを決意した隊員の複雑な胸の内を、私なりに論じ、木下さんと同じような感慨を抱いたので、木下さんのおっしゃることがよく分かります。小浜さんの文章をおおむね受け入れながらも、どこか違和感が残る、という私なりの感触を、木下さんがうまく言い当ててくれたような気がしています。おそらく、小浜さん自身が、特攻隊の遺書か、あるいは特攻経験者の言葉に直接当たっていただいて、それに対して何をお感じになるのか、率直に述べていただくのがよろしいのではないか、と私は考えます。尻馬に乗ったような形で、木下さん、小浜さんに申し訳ないような気もしますが、削除することなく、アップしてしまうことをお許しください。
美津島明さん、コメントありがとうございます。
私は、誰か一人でも私の意見を真剣に聞いてくだされば良いなぁと思って文章を公表しています。美津島さんのように、真剣に読んでくださり、コメントで私の意見に賛成までしていただきとても嬉しく感じております。
また、「究極の文章 ーーー特攻隊員の遺書について (イザ!ブログ 2013・9・19 掲載)」を拝見させていただきました。素晴らしい文章です。読んでいて、ウルッときてしまいました。特に、「~の箇所の美しさはまるで魔法のようです。」という表現は見事だと感じました。
今後とも、よろしくお願いいたします。
>そもそも現代の日本に、「本物」がいるのかどうか知りたいのです。
木下さんのこの問を、「倫理の本質」を知る「本物」がいるのか、と解するならば、非常に重たい議論になってきます。
倫理について、神道では「言挙げせぬ」、仏教では「不立文字」、釈尊は「四十九年一字不説」、山本常長は「消却せよ」、これらはいずれも同じことを言っているように感じます。「言ったらおしまい」といっているように思えます。「知の情意に対する越権」はやめなさいといっているように解されます。こうなってくると、倫理について議すること自体が無意味ということになって来るのですが・・・。それでも語らねばならないのが倫理。『言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒』
eeggeさん、コメントありがとうございます。
回答させていただきます。
> 木下さんのこの問を、「倫理の本質」を知る「本物」がいるのか、
> と解するならば、非常に重たい議論になってきます。
私が使用した「本物」という言葉は、そのような意味ではありません。
簡単に説明させていただきます。
藤井聡の『永遠に「ゼロ」?』では、架空の物語の登場人物の行動を、家族そろって大爆笑する場面が出てきます。これは、実際の類似例(復員軍人と戦争未亡人の再婚など)についての嘲笑にもなってしまいますので、人の道に外れた行為なわけです。
人間ですので、間違いを犯すことは往々にしてあるものです。問題は、間違いを犯した後の行動になります。そのとき、どのような仲間がいるのかが重要になってきます。
仲間や尊敬する人物が間違ったことをしたとき、それを注意するのは難しいことです。しかし、その難しいことができないのなら、そんな思想に何の意義があるのでしょうか?
小浜逸郎氏は、『Voice』特別シンポジウム「2015年の安倍政権を占う」で藤井聡と対談しています。にもかかわらず、〈私も木下氏の藤井批判にほとんど賛成ですが〉と書いておられるわけです。私に賛成しても、小浜氏にデメリットはあっても、メリットはまったくないわけです。ですから、私は小浜氏を「本物」の批評家だと本記事で述べているのです。
藤井のメチャクチャな意見に対し、間違っていると言えないようなら、そんな人たちは「本物」ではない(と私には思える)ということです。真正保守ごっこを勝手にやってろと思うだけです。
倫理については、私は「言ったらおしまい」とは考えてはいません。
私は、「言い切ったらおしまい」であって、「言い続けなければいけない」ものだと考えています。つまり、議論しあって、間違っていたら修正すべきものだということです。
ユダヤ教やキリスト教などのように、絶対神の言葉を出してくる思想は、少なくとも私にとってはあまり上等だとは思えないのです。
よくわかりました、丁寧な応答有り難うございました。これで、私は、このスレッドにおける貴方の言説に、丸ごと賛同することができます。
山本常長は山本常朝でした訂正します。