『日本式正道論』第六章 町人道

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第六章 町人道

 町人道は、江戸の町人に由来する思想です。
 幕藩体制下における経済活動の高まりとともに、町人の間に独自の生き方を模索する動きが生まれました。具体的には、正直・信用・倹約・勤勉・義理・人情などの尊重が挙げられます。町人は職業の役割や意義を踏まえ、広く学問への関心と教育の重要性について思索を深めました。町人道は「町人の道」であり、江戸の文献には町人の「道」についての伝統が展開されています。町人道は、神道・仏教・儒教を参考としながらも、武士道とは異なった成長を遂げています。
 本章では、日本の町人道における町人の「道」を見ていきます。

第一節 物語作者の思想

 江戸時代には、井原西鶴に代表される浮世草子や、近松門左衛門に代表される浄瑠璃・歌舞伎などの文化が発達しました。

第一項 井原西鶴

 井原西鶴(1642~1693)は、江戸前期の浮世草子作者で俳人です。浮世草子では、武士や町人の生活の実態を客観的に描き、日本最初の現実主義的な庶民文学を確立しました。
 西鶴の作品の中で、好色物と呼ばれる作品群において「色道」が述べられています。例えば、〈浮き世の事を外になして。色道ふたつに(『好色一代男』)〉という表現があります。ふたつとは、男色と女色のことです。また、〈色道におぼれ、若死の人こそ、愚なれ(『好色一代女』)〉や、〈誠なる心から、片山陰に草庵を引き結び、後の世の道ばかり願ひ、色道かつて止めしは、さらに殊勝さ限りなし(『好色五人女』)〉などと語られています。
 西鶴の町人物と呼ばれる作品群においては、「孝の道」が語られています。『本朝二十不幸』では、〈生としいける輩、孝なる道をしらずんば、天の咎を遁るべからず〉や〈かゝる浮世習にて、親は憐み、子は孝を竭(つくす)を道なり〉とあります。孝の道は、〈主人に、忠ある人、親に、孝ある者は、御恵み深く。おのづから、其道に入て、国の治る、此時なれば〉とあるように、国の統治が安定することにつながります。
 『日本永代蔵』においては、〈天道言はずして国土に恵みふかし。人は実あつて偽りおほし〉とあり、「天道」が語られています。また、〈手遠きねがひを捨てて、近道にそれぞれの家職をはげむべし〉とあり、過度な理想である願いに対し、常識的で現実的な処世である「近道」が語られています。

第二項 近松門左衛門

 近松門左衛門(1653~1724)は、江戸中期の浄瑠璃や歌舞伎の作者です。歌舞伎の全盛を築きました。
 作品の中に、道についての言及を見ることができます。『曽根崎心中』には、〈道を迷うな違ふな〉という言葉があります。『冥途の飛脚』には、〈身を忍ぶ恋の道。我から狭き浮世の道〉が語られています。
 『国性爺合戦』には、〈日本には正直中常の神明の道有り〉とあります。さらに、〈大和唐土様々に、道の巷は別るれど、迷はで急ぐ誠の道〉ともあります。
 『山崎与次兵衛寿の門松』には、〈侍の親が育てゝ商売の道を教ゆる故に武士となり、町人の子は町人の親が育てゝ商売の道を教ゆる故に商人となる。侍は利徳を捨てゝ名を求め、町人は名を捨てゝ利徳を取り金銀をためる、是が道と申すもの〉とあります。

第三項 上田秋成

 上田秋成(1734~1809)は、江戸後期の国学者で、浮世草子や読本の作者です。
 『雨月物語』の[貧福論]では、〈善を撫で悪を罪するは、天なり、神なり、仏なり。三ツのものは道なり。我がともがらのおよぶべきにあらず〉とあります。善悪は、天と神と仏の三つの道により、それは人間の考えのおよぶところではないというのです。
 また、『春雨物語』の[歌のほまれ]では、〈歌よむはおのが心のままに、又浦山のたたずまひ、花鳥のいろね、いつたがふべきに非ず。ただただあはれと思ふ事は、すなほによみたる。是をなんまことの道とは、歌をいふべかりける〉とあります。心のまま歌を詠うことが「まことの道」だとされています。

第二節 自然の思想

 江戸時代には、自然に対する思想も発達しました。

第一項 西川如見

 西川如見(1648~1724)は、江戸中期の天文地理学者です。
 『町人嚢』には、〈天竺は佛國にて、唯我独尊の大國、此外の國々は粟散國也と自慢す。唐土は聖人の國にて天地の中國也、萬國第一仁義の國、日月星辰も此國を第一と照し給ふ、といふて自慢す。又日本は神國也、世界の東にありて日輪始て照し給ふ國にて、地霊に人神也、萬國第一の國にて、金銀も多し、豊秋津國とも、中津國とも、浦安國ともいふなりと自慢す。此三國、おのおの自慢あり。自慢によつて其國の作法政道立たり〉とあります。各国は、みずから自慢するところをもって、国の礼儀や政治が決まるのだという考えが見られます。
 天道については、〈天子は萬民の上に居給ひ、天道の御名代と成給ひて、天道を恐れ慎み萬民を教誡め給ふ事〉とあります。天皇が天道と関連づけられています。天道は天皇だけでなく将軍とも関わり、〈天子将軍いづれも天道にしたがひ給ひて法度禁制を立給ひ、四民は天子将軍にしたがひ奉て法度禁制を慎み守りて天下太平也〉とも語られています。
 如見の考えでは侍と町人で道が区別され、〈町人は利を捨て名を専らとする時は、身代をつぶすもの也。侍は名を捨て利を専らとする時は、身を亡す事あり、名利を正しく求るを、道を知れる人といふ〉とされ、〈四民みな通用の道理あり〉と語られています。日本については、〈本朝の事は、神と歌との二みちの外は多くはもろこしよりつたへしなり〉と述べられています。日本の神道と和歌の道は、日本に由来し、他の道は、他国から伝わったと考えられています。

第二項 三浦梅園

 三浦梅園(1723~1789)は、江戸時代を代表する自然哲学者であり、医学者、政治経済学者、文学者、総じて百科全書的な学者です。十代後半の一時期に儒学の師につきますが、郷里で家業の医を継ぎ、生涯を学問に捧げました。
 『玄語』には、〈徳は、それを得ることによって万緯が(何ものかの)宅となるところのもの、道は、それに由ることによって万経が(何ものかの)路となるところのもの、である〉とあります。徳と道が定義されています。その道に対しての立場は、〈道を人に尽して、命を天に俟つ〉と表明されています。
 『多賀墨卿君にこたふる書』という書簡では、〈道は衆を安んずるより大ひなるはなく、功は衆を利するよりすぐれたるはなく候〉と語られています。

第三節 石門心学

 石門心学とは、江戸時代中期に登場した石田梅岩の門流の学問をさして言います。江戸後半の百数十年にわたって庶民社会に影響を及ぼしました。

第一項 石田梅岩

 石田梅岩(1685~1744)は、石門心学の祖です。梅岩は農民の子として生まれ、その生涯の大部分を商家の奉公人として過ごした庶民階級出身の思想家です。最初神道から出発し、関心を儒学に拡げ、仏教や老荘思想からも多くを学んでいます。
 『都鄙問答』には、〈根本既立トキハ、其道自生〉とあります。根本が立つときに道が生まれるということです。
 天道については〈天道ハ萬物ヲ生ジテ、其生ジタル者ヲ以テ其生ジタル物ヲ養、其生ジタル物ガ其生ジタルヲ喰フ〉とあります。自然や食物連鎖を連想さる考え方です。
 道については、〈摠テイヘバ道ハ一ナリ。然レドモ士農工商トモニ、各行フ道アリ〉とあります。道は一つですが、職業ごとにそれぞれの道があるというのです。例えば、〈士ノ道ハ、先心ヲ知テ志ヲ定ムベシ〉や〈心ヲ合テ敵ヲ伐ハ士ノ道ナリ〉とあります。また、〈富ヲナスハ商人ノ道ナリ〉や〈利ヲ取ラザルハ商人ノ道ニアラズ〉とあります。
 『莫妄想』には、〈道ニ志シ有者ハ道ニ身ヲ任用事ヨリ他ハナシ。道ニ任用テ他事ナクバ聖ニ至ラズト謂モ今日成処ハ道ノ用ナリ。私シ事ハナシ〉とあります。道に私欲はないというのです。
 『石田先生語録』では、〈神儒仏ノ三道ヲ倚ヨラズシテ尊ビ用ユル〉とあります。石門心学では、神道・儒教・仏教が一致するという三教一致の立場を取っています。

第二項 手島堵庵

 手島堵庵(1718~1786)は、江戸中期の心学者です。18歳で石田梅岩に師事しました。家業を長男に譲った後、師説の普及と宣伝に専念しました。
 『会友大旨』には、〈道は則本心なり〉とあります。また、〈正道といふはよく本心を弁へぬれば毫厘も私なきゆへ、上を上としてうやまひ、下は下として背かず、貴賤あきらかにわかりたるをいふ也〉とあります。道には私がなく、上を敬い下に背かずに、貴賎が明らかに分かることだとされています。

第三項 中沢道二

 中沢道二(1725~1803)は、江戸時代後期の心学者です。石門心学の教化活動に努め、多くの成果をあげました。
 『道二翁道話』には、〈天地の常とは則ち道の事でござります〉とあります。具体的には、〈道とは何ぞ、雀はちうちう、鳥はかあかあ、鳶は鳶の道、鳩は鳩の道、君子其位に素して行ふ。外に願ひ求めはない。その形地(かたち)の通り勤めてゐるを天地和合の道といふ〉というのです。ですから、〈たゞ素直に和合の道。此外に道はない。それが神道、夫が儒道、それが佛道じや。此外に道といふはない〉と語られています。
 このことを別の言い方であらわすと、〈道とは何んぞ。心の事じゃ。神道と云ふも心の事、佛道といふも、儒道といふも、心の事じや〉とあります。道は心のことなのですから、〈善いと悪いは腹の中に能ウ知つてゐる。悪いと知らば直に止めたがよい。夫が神道、夫が儒道佛道、此外に道はない〉とされています。そこで、〈善といふは道のこと。人と生れては、人の道を盡すが善〉と続きます。〈道を守るといふは行ひのこと〉だとされています。
 また、〈天の命これを性と謂ふ。性に率ふこれを道と謂ふ。道を脩るこれを教と謂ふ〉とあります。〈互に道があつて和合するから、萬事萬端用も足り自由ができる〉と考えられています。〈道は萬物に具はツてある〉のであり、〈仁義禮智信の五常が人の道〉なのだとされています。

第四項 柴田鳩翁

 柴田鳩翁(1783~1839)は、江戸時代後期の心学者です。講談師としての才能を活かし、「道話」という形式で石門心学の狩猟を人々に説きました。
 『鳩翁道話』には、〈なるほど心が主人となって、身を家来としてつかうときはみな道にかないまする〉とあり、〈心が身につかわれますると、いつでも道にはずれてみな身びいき、身勝手になりまする〉とあります。肉体に対する精神の優位性が道に繋がるというのです。
 『続鳩翁道話』では、〈されば銘々どもが、人の道を失いまするは、ただおれがおれがの身びいき、身勝手よりおこるのでござります〉とあります。そこで、〈道は須叟もはなるべからず、道にあたれば、生れるも死ぬるも、苦しむも、楽しむも、我なしでするゆえ、我にはあずからぬ。ゆえに、大安楽でござります〉と語られています。
 『続々鳩翁道話』では、〈道とは自由自在のできるという名じゃ。無理すると自由自在はできぬ。無理のない本心にしたがえば、自由自在で安楽にござります。これを道と申しまする〉とあります。では本心とは何かというと、〈誠は天理自然の道、則ち本心のことでござります。さて本心を思うて、本心のごとくありたしと、かえりみるが、これを誠にする人の道じゃ〉と述べられています。そこでは、〈人と道と合せものではござりませぬ、道は性にしたがうの道で、うまれつきのとおりにするのが道じゃ。道のほかに物なく、もののほかに道はござりませぬ。また古人の説に、心は道なり、道は天なりともみえまして、心をしれば道をしります、道をしれば天をしります。これをしれば、天人一致、万物一体の道理がしれます。よしまたこの道理はしらいでも目は見る、耳はきく、手はもつ、足はゆく、訳を知ったもしらぬも、生れつきの道じゃによって、自由自在にできまする〉と語られています。
 つまり、〈心の体は性なり、心の用は情なり。心は道なり、さればこそ性は道の体、情は道の用なりとも申してある。これでみれば人と道とは、離れとうても、離れられるものではござりませぬ〉ということで、〈何もない性に、一切の理がふくんであって、よく万事に応じまする。ゆえに中とは、あたるとの儀とも申してござります。則ちこれが天命の性、道の大本というてあるのじゃ〉とされています。

第四節 農の思想

 江戸時代には、農耕に関わる思想も発達しました。

第一項 安藤昌益

 安藤昌益(1703~1762)は、近世中期の医師・農本思想家です。1899年に、狩野亨吉によって評価されるまで、その存在がほとんど知られていませんでした。
 『自然真営道』には、〈気ハ満ツル故ニ進退ス。此ノ故ニ進退ノ気満チテ、至ラズト云フコト無シ。之ヲ道ト謂フ〉とあります。これは五行のことを述べています。五行とは、木・火・土・金・水の五つの元素のことです。〈真ト道ハ、乃チ五行ノコトナリ〉というわけです。具体的には、〈道ハ自然。具足ノ道ナリ〉と語られています。
 『統道真伝』では、〈道と言えるは、自然の進退、一気の名にして、無二の行徳の言(いい)なり〉とあります。これも具体的には、〈真道とは直耕の一道なり〉とか〈直耕者は真道なり〉とあり、農業の重要性が述べられています。これを日本という観点から考えると、〈自然の進退にして一道なること、日本人の言に能く具わるなり。故に小進気の神国なり〉と語られています。

第二項 大原幽学

 大原幽学(1797~1858)は、近世後期の村落指導者です。農業技術の指導にあたり、教導所を設け、農民に教えを説きました。
 『微味幽玄考』には、〈蓋し人は天地の和の別神霊の長たる者故、天地の和の万物に之き及ぼす如くの養道を行ふこそ、人の人たる道とす。其本は君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友のうちに有て、末四海に及ぼす事に至る〉とあります。人は天地において最も秀でた存在であるので、養う道を行くことが人の人たる道であり、その根本は人々の関係の中にあるのだと語られています。
 人心と道心の区別にも言及していて、〈人心とは、暑いとか寒いとか唯自分の身而已思ふをいふ〉とあり、〈道心とは、人を道(ミチビ)く為めに己が身を思ふいとま無く〉あることだというのです。
 また、道と理の関係については、〈道を能行はんと欲する者は、一理を能味ひ知るべし。数を見聞くは、唯一理を知る為めにすべし。見聞きたる事をもて行はんとすれば、見聞かざる事は行ひ難し〉と語られています。道を行う者は、理を知るべきだとされています。それは、数を見たり聞いたりすることは、理を知るために行うべきだからと考えられています。なぜなら、見たり聞いたりしたことだけ行おうとすれば、見たり聞いたりしたことしかできなくなるからです。理があるが故に、未知のものにも対処できるというのです。
 また道については、〈是天人地の三自ら渡り合て、以て道たる也。故に道は太極也と謂へり〉とあり、『易経』からの影響もみられます。天と人と地が合わさって道だとされています。
 『義論集』では〈物順なるを以て道とす〉とも語られています。

第五節 懐徳堂の思想

 江戸中期には、懐徳堂での学問を通じて特異な思想が語られました。

第一項 富永仲基

 富永仲基(1715~1746)は、江戸中期の思想家です。幼少から懐徳堂で学びましたが、後に破門されています。儒教・仏教・神道の三教の道の批判の上に立って、自らの誠の道を提唱しました。32歳の短い生涯でした。
 仲基の著作である『出定後語』では、〈言に物あり。道、これがために分かる。国に俗あり。道、これがために異なり〉とあります。言語を形成する条件の相違によって道の内容も分かれます。国には風俗や習慣があり、道には風土的な差異が見られるということです。
 『翁の文』では、〈嗚呼、斯の民有れば斯の道有り。今の道に由て今の俗を易ふ〉とあります。民が居れば道があり、その今の道によって今の習俗が行われるのです。その道については、〈三教の道の外に、又誠の道といふことを、主張して説出たり〉とあります。この誠の道について、〈國ことなりとて、時ことなりとて、道は道にあるべきなれども、道の道といふ言の本は、行はるゝより出たる言にて、行はれざる道は、誠の道にあらざれば、此三教の道は、皆今の世の日本に、行れざる道とはいふべきなり〉と語られています。国が異なり、時代が違っても、道は道にかわりがないはずです。しかし、この道と名づけられた言葉の本来の意味は、それが実践されるところから出た言葉なので、実践されない道というものは、誠の道ではないというのです。ですから、この三教の道は、すべて今の世の日本では、実践されていない道だと考えられています。そこで、〈しからばその誠の道の、今の世の日本に行はるべき道はいかにとならば、唯物ごとそのあたりまへをつとめ、今日の業を本とし、心をすぐにし、身持をたゞしくし、物いひをしづめ、立ふるまひをつゝしみ、親あるものは、能これにつかふまつり〉と語られています。誠の道は、当たり前を行う道だというのです。
 つまり、〈今の文字をかき、今の言をつかひ、今の食物をくらひ、今の衣服を着、今の調度を用ひ、今の家にすみ、今のならはしに従ひ、今の掟を守り、今の人に交り、もろもろのあしきことをなさず、もろもろのよき事を行ふを、誠の道ともいひ、又今の世の日本に行はるべき道ともいふなり〉ということです。今において、今の悪しきことをせず、今の善きことを行うのが誠の道で、今の世の日本で実践すべき道だというのです。
 誠の道は、〈只今日の人の上にて、かくすれば、人もこれを悦び、己もこゝろよく、始終さはる所なふ、よくおさまりゆき、又かくせざれば、人もこれをにくみ、己もこゝろよからず、物ごとさはりがちに、とゞこほりのみおほくなりゆけば、かくせざればかなはざる、人のあたりまへより出来たる事〉だというのです。そこから、〈人の世にまじらひて、此世をすごしなば、すなはち誠の道を行ふ人なりともいふべし〉とされ、〈只その誠の道を行はしめんとなり〉と語られているのです。その誠の道について、〈其かくしてたやすく傳へたがく、又價を定めて傳授するやうなる道は、皆誠の道にはあらぬ事と心得べし〉とあります。つまり、たやすく伝えられなかったり、価値を定めて伝授するような道は、誠の道ではないと語られているのです。

第六節 経世の思想

 江戸時代には、世を治める経世の思想も発達しました。

第一項 本多利明

 本多利明(1743~1820)は、江戸時代後期の経世家です。数学・天文学・暦学・地理学を修得し、蘭学に接近しました。国内の経済問題と、蝦夷地方面でのロシアに対する北方問題の解決について取り組みました。
 『西域物語』には、〈道を守る人を賢君と云て世の賞を得、左なきは皆災に係りて空くなりぬ〉とあります。道を守る人とは、歴史的条件下、すなわち封建制下での道徳を守る、中庸の人の意です。道を守る人がいなければ、皆が災いによって空しい世となってしまうというのです。そのため、〈神・儒・仏の三道ありて世に行るといへ共、国家に益を興す程の英雄も出来ざるは、三道信用する験(しるし)も無に似たり〉と述べられています。三道とは神道・儒教・仏教のことで、日本古来からの因習的な道徳・宗教とし、日本の良智をさまたげるものとして非難の意をこめて用いています。
 また、〈真実に有難く思ひて万民より治る道を勤て、治ざれ共万歳の基を開く風俗となれば、なんぼう目出度事に非や〉とあります。万民より治る道は、下庶民の間から自然に治まっていく道であり、自然治道と呼んでいます。そこから、〈治道と云、農民の困苦を救ふを先とせり〉と語られています。治道は自然治道を指し、自然治道とは、国富をまし、農民を撫育するための自然に則した経済政策といった意味を持っています。
 『交易論』では、〈たとへ戦争をふるといふとも、国家の為に益を謀るは、君道の本意なれば、至極其道理なり〉という道理が語られています。利明の経世論は本来、平和的な交易を前提とするものですが、『交易論』ではやや戦争を肯定する立場に進んでいます。君道とは、一国の統治者としての道です。

第二項 海保青陵

 海保青陵(1755~1817)は、江戸時代後期の経世家です。徳川家への士官を辞退し、家督を弟に譲り、儒者奉公しました。その後、各地を遊歴し、現実指向の思想を展開しました。
 『稽古談』には、〈他国ノ財貨ヲ自国ヘスヒコムモ、覇道ニテ智ノ株シキ也。自国ノ土ヨリ物ノ生ズルコト多クナルハ、王道ニテ仁ノ株シキ也〉とあります。他国から奪うのは智による覇道にて、自国(の土)より生ずるのは仁による王道だというのです。

第七節 報徳思想

 江戸時代には、二宮尊徳に始める報徳思想が誕生しました。

第一項 二宮尊徳

 二宮尊徳(1787~1856)は、近世後期の農政家・思想家です。神道・仏教・儒教などの思想を合わせた報徳思想を説いて、農民の労働の意味づけを行いました。二宮尊徳の思想は、門人である福住正兄(1824~1892)が尊徳の言葉を書き記した『二宮翁夜話』などで知ることができます。
 『二宮翁夜話』には、〈誠の道は、学ばずしておのづから知り、習はずしておのづから覚へ、書籍もなく記録もなく、師匠のなく、而して人々自得して忘れず、是ぞ誠の道の本体なる〉とあります。誠の道は、学習しなくとも自然と知覚できるものなのです。そこには、本も記録も師匠も必要とされていません。〈我が道は至誠と実行のみ〉というわけです。
 尊徳の道では、人道と天道という概念が重要です。〈天道は自然なり、人道は天道に随ふといへ共、又人為なり、人道を尽して天道に任すべし〉と言われています。〈人道は人造なり〉とも言われています。〈天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり〉とされる点が特徴です。
 人道については色々と述べられています。〈皆人の為に立たる道なり、依て人道〉とあり、〈政を立、教を立、刑法を定め、礼法を制し、やかましくうるさく、世話をやきて、漸く人道は立なり〉と語られています。そこから〈人道は親の養育を受けて、子を養育し、師の教を受けて、子弟を教へ、人の世話を受けて、人の世話をする、是人道なり〉ということに繋がります。それゆえ、〈人道は中庸を尊む〉のです。ですから、〈人道は日々夜々人力を尽し、保護して成る〉わけです。なぜなら、〈自然の道は、万古廃れず、作為の道は怠れば廃る〉からです。そこで、〈人道は私欲を制するを道とし〉なければならないとされています。〈人道は勤るを以て尊しとし、自然に任ずるを尊ばず、夫人道の勤むべきは、己に克の教なり、己は私欲也〉ということです。己という私欲に打ち勝つのが人道だというのです。
 人道は、譲ることと繋がっています。〈譲は人道なり、今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るの道を勤めざるは、人にして人にあらず〉とあります。将来へ譲ることをしない者は、人間ではないというのです。〈勤倹を尽して、暮しを立て、何程か余財を譲る事を勤むべし。是道なり〉と語られています。
 天道は自然ですが、その自然を見ることは悟道と呼ばれています。〈悟道は只自然の行処を見るのみにして、人道は行当る所まで行くべし〉とあります。ほぼ同じ表現ですが、〈悟道は只、自然の行く処を観じて、然して勤むる処は、人道にあるなり〉ともあります。〈悟道は人倫に益なし、然といへども、悟道にあらざれば、執着を脱する事能はず、是悟道の妙なり〉と語られています。
 神道・儒教・仏教の三教に対しては、〈翁曰、世の中に誠の大道は只一筋なり、神といひ儒と云仏といふ、皆同じく大道に入るべき入口の名なり、或は天台といひ真言といひ法華といひ禅と云も、同じく入口の小路の名なり〉と三教一致の立場を示しています。〈そのごとく神儒仏を初、心学性学等枚挙に暇あらざるも、皆大道の入口の名なり、此入口幾箇あるも至る処は必一の誠の道也〉とあり、それぞれの道で入り口が違えど、到達するところは一つであるとされています。例えとして、〈不士山に登るが如し〉とあり、どこから登り始めようと、〈其登る処の絶頂に至れば一つ也、斯の如くならざれば真の大道と云べからず〉と語られています。〈正道は必世を益するの一つなり〉という点から語られているわけです。三教一致の道は、具体的には〈今道々の、専とする処を云はゞ、神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり、故に予は高尚を尊ばず、卑近を厭はず、此三道の正味のみを取れり〉と語られています。

第二項 斉藤高行

 斉藤高行(1819~1894)は、幕末・明治前期の報徳運動家です。
 『報徳外記』には、〈我道は分度にあり。分なる者は、天命の謂なり。度なる者は、人道の謂なり。分度立ちて譲道生ず。譲なる者は、人道の粋なり。身や、家や、国や、天下や、譲道を失ひて衰へざる者は、未だ之あらざるなり。分度を失ひて亡びざる者は、未だ之あらざるなり〉とあります。我が道は分度にあると述べているのです。分は天命であり、度は人道であり、そこから譲り合いの道が生じるとされています。譲り合いの道は、人の道の粋だと考えられています。

第三項 岡田良一郎

 岡田良一郎(1839~1915)は、実業家で政治家です。二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、地域の振興に努めました。
 『報徳学斉家談』には、〈神教ニ報本反始ノ道ヲ貴ビ、儒教ニ以徳報徳ヲ以テ人倫ノ行ト為シ、仏教四恩ヲ報スルヲ以テ大乗トス〉とあります。神教とは神道のことで、報本反始とは天地や祖先の恩に報いることとされています。儒教では、報徳の徳をもって人倫の行為となると言うのです。仏教では、四恩に報いると考えられています。四恩とは、仏典により異なりますが、『大乗本生心地観経』では、父母恩・衆生恩・国王恩・三宝恩のことです。
 また、道について、〈天命自然ノ富貴ニ従テ、天ヲ戴キ、身分ヲ慎シミ、礼法ヲ犯サズ、分度ヲ守リ、驕奢弊風ニ流レズ、又ハ衣服、飲食、居住ニ至ル迄、万端手軽ニイタシ、貴賤ヲ恵ム。是レヲ道ト云〉とあります。封建制度下における道徳に従い、贅沢をせずに衣食住を手軽にするのが道だと語られています。

第八節 蘭学の思想

 蘭学は、渡辺崋山と高野長英によって発展しました。

第一項 渡辺崋山

 渡辺崋山(1793~1841)は、江戸時代後期の三河国田原藩の藩主です。外国知識の必要から蘭学に関心を寄せました。最期は投獄され自刃しました。
 『初稿西洋事情書』では、〈物極れば衰ふ、衰極れば興る、天道自然に斡旋致し候〉とあります。栄枯衰退という天の法則がおのずからめぐってくるということが語られています。
 『慎機論』では、〈西洋諸国の道とする所、我道とする所の、道理に於ては一有て二なしといへども、其見の大小の分異なきに非ず〉とあります。西洋諸国と日本の道では、見解に多少の相違がないわけではないと語られています。


※本連載の一覧はコチラをご覧ください。

西部邁

木下元文

木下元文

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