「国家の輪郭」としての靖国神社 — 首相の靖国参拝に求められる「論理」について

5.靖国神社は「英雄」を讃えるための施設である

 数年前にベストセラーになった高橋哲哉氏の『靖国問題』という本は、靖国神社というのは戦死した兵士を「英雄として顕彰する」ための施設であると繰り返し強調していました。この本全体の趣旨はめちゃくちゃで、いわゆるトンデモ本の一種なのですが、靖国神社が戦没兵士を「顕彰」(功績を明らかにし、広く知らしめる)する役割を担っているというのは事実でしょう。そして、このことがあまり強調されていない点が、保守派の靖国参拝推進論の一つの弱点であると私は思います。
 靖国神社に祀られているのは「英霊」、つまり「英雄たちの霊魂」です。戦争で死んだ兵士を「英霊」として祀るという行為は、「国家として讃えるに値する“特別な死に方”をした人たち」を選抜し、他の人たちとは差別化して記憶に留めるということを意味するはずです。単に、戦争の犠牲になったことが気の毒だから、その霊を慰めるというだけではあり得ません。
 その意味では今回の安倍首相の談話はけっこう正確で、「本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとこご冥福をお祈りしました。」と述べられています。国のために戦った人たちへの「哀悼の意」とともに、「尊崇の念」が表明されているわけです。ここで「尊び崇め」られているのは、「国を守るために命を惜しまず敵と戦って死ぬ」という特筆すべき人生であり、それに「名誉」を与えるというのが靖国神社の主要な役割の一つなのです。
 なお似たような意味合いで、前出の産経新聞の社説にも「国を守るという観点から」首相の靖国参拝は大事なのだと書かれていました[*1]。櫻田淳氏も昔、靖国神社は「兵士の士気」を支えるという意味で「安全保障装置」の一つであると論じていました[*2]。戦死には特別な価値があるとしなければ、戦えないというわけです。
 このように考えておかないと、「なぜ戦争では一般市民もたくさん殺されるのに、兵士ばかりを祀った神社を特別視しなければならないのか」という、参拝反対派の批判に答えられなくなるはずです。
 安倍首相の参拝の直前に産経新聞に掲載された百地章氏の論評には、「いうまでもなく、靖国神社はわが国における戦没者慰霊の中心施設である。それ故、首相が国民を代表して靖国神社に参拝し、国のために殉じられた戦没者に対し感謝と慰霊の誠を尽くすのは当然のことであって、本来、政治的配慮などとは無縁なはずだ」と書かれていました[*3]。この言い方は保守派の決まり文句ですが、果たして靖国参拝という行為がそんなにヒューマニスティックで、「政治的配慮などとは無縁」と言い切れるものであるかは疑問です。

[*1] 「主張 首相靖国参拝 国民との約束果たした 平和の維持に必要な行為だ」, 産経新聞, 2013年12月27日付.
[*2] 櫻田淳, 「安全保障装置としての靖国神社」, 産経新聞, 2002年4月23日付.
[*3] 百地章, 「正論 首相は英霊の加護信じて参拝を」, 産経新聞, 2013年12月25日付.

6.「外交問題」化するのは当然のこと

 靖国神社が戦死者を「英雄」として祀る施設であることを考えると、その本質からして諸外国との間にわだかまりを生み出しやすい存在であるということがよく分かります。
 「中国・韓国による靖国参拝批判は、“内政干渉”に他ならない」と靖国参拝推進派は言うのですが、そもそも戦争というのは外国と戦うことなわけで、戦争で死んだ兵士の魂に思いを馳せることを「純然たる内政問題」と理解するのは無理があります。靖国神社には、中国軍と戦って死んだ兵士が祀られていたり、大日本帝国臣民として戦った韓国・朝鮮人の兵士も祀られているわけですから、諸外国(旧敵国と旧植民地)が「靖国神社においてどのような趣旨の儀式が執り行われているのか」について関心を持つのも、自然なことであると考えるべきでしょう。
 もちろん人間には、済んだことは仕方がないものとして受け入れる寛容さが備わっており、この「寛容」の精神は国際社会のみならず我々の日常生活を安定的に営む上でも必須のものです。
 重要なのは、この寛容さというのは、「戦没者の慰霊は、相手国の国内問題だから気にしない」のではなく、「文句を言いたいことも色々あるが、殺し合ったのはお互い様だし、今さら大騒ぎしても仕方ないからここは黙っておく」という性質のものだと理解することです。我々日本人も、原爆投下等についてアメリカに言いたいことは色々ありますし、場面によっては文句を言って良いわけです。
 私は何も、首相の靖国参拝に抗議する中国や韓国の側にこそ正義があると言いたいのではありません。国家間には正義をめぐる衝突があるのが普通の状態だということです。そして、戦没者の慰霊や顕彰というような行為は、もともと「正義」をめぐる対立を生みやすい話題だと考えるべきなのです。
 元外交官で京都産業大学の東郷和彦教授がインタビューに答えて、「自前の歴史認識を作る代わりに、日本は中国製の歴史認識を受け入れたと言われても仕方のない行動をとりました。(中略)国際社会では反論しなければ受け入れたとみなされます。A級戦犯は国際的に日本軍国主義の象徴とされてしまった以上、反論するにはよほどの覚悟が必要です」と指摘していましたが、その通りだと思います[*1]
 寛容さというものは微妙なコミュニケーションの積み重ねの上に成り立つものなので、いったん問題化してしまったら単に「忘れましょう」といって解決できるわけではない。現実問題として、1980年代以降「靖国参拝」は完全に外交問題化しており、外交問題としての歴史がすでに30年もあるのです。時計の針を戻すことはできないのですから、「内政に干渉するな」の一言で片付けることはできないはずです。先にも述べましたが、たとえば大東亜戦争の「大義」を堂々と主張できる状況にないのであれば、まずその状況の改善が先でしょう。

[*1] 「耕論 靖国参拝、信念の向こう側 東郷和彦さん、小田嶋隆さん」, 朝日新聞, 12月29日付.

→ 次ページ:「7.靖国神社は「政治的」な施設である」を読む

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西部邁

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コメント

    • 萩原 和紀
    • 2014年 1月 03日

    靖国神社の意味合い、2面性、日本人としての精神の多面的な中の靖国神社という公共的な意思の形に表される2面性「同胞の死を悼む」「政治的な利用」を思索しそれを積み重ねて、落としどころを見つけて参拝するならすべきという事だと見ています。
     それと、靖国神社への参拝をこのような形で評してくれることを感謝しています、今まで他のメディアの評論や意見を見ても形はあれども中身がある様な無い様なと言うようなものしかなかった。と思うのは私の勉強不足なのかもしれませんけどね。

    • 川端
    • 2014年 1月 03日

    ありがとうございます。
    私は、上記の本文中では「不十分だ」みたいに書いてますが、一般のメディアの論評自体はすごく参考にしてきました。
    保守派の、一昔前に「新しい歴史教科書をつくる会」とかをやられていた先生方は、ほんとによく調べられて整理されていたと思います。
    ただ、結局のところその内容が、
    ① 年代も高く、もともと靖国神社に参拝するのが「自然」だと思っている人たち
    ② いわゆるネトウヨ的な、外国の悪口を言うことに過剰に熱心な人たち
    のいずれかにしか届かないのではないかという危惧があり、「若い世代の、ふつうの人」が靖国神社をどう受け止めるべきかというのを、考えていきたいと思いました。

    • 川端
    • 2014年 1月 03日

    本文に補足です。

    急に特攻隊に触れたくなったのは(笑)、この坂口安吾の『特攻隊に捧ぐ』という文章が頭にあったからです。
    http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45201_22667.html

    反戦平和主義者であるはずの安吾が、特攻隊を絶賛しています。
    しかも、単純に絶賛しているのではなくて、ものごとの二面性を丁寧に捉えようとしているところが、すごい文章だな〜と思うのです。

    • 松田 隆
    • 2014年 1月 04日

     川端祐一郎氏のご意見は、一見、もっともだと思われる方が多いかと思いますが、もともと、靖国神社の歴史は主に幕末から昭和そして平成の現代に至るまでの、我が国の近代化に尽くしてきた人々をお祭りする神社であり、特にあの大東亜戦争で戦われた軍人達が死んだ後で、靖国神社で再会しようと誓い合った特別の神社であります。

     その靖国神社には政治問題化するまでは昭和天皇もご参拝され、今も生きている中曽根元総理大臣が参拝するまではここまで政治問題とはなっておりませんでした。

     靖国神社自体が当初から政治問題化する神社ではなく、マスコミが政治問題化したのは事実であり、川端祐一郎氏のご意見はそのことをもって論理破綻されているかと思いますが、如何でしょうか。反論を私のメールアドレスまでお待ちしております。

    • 川端
    • 2014年 1月 05日

    マスコミが政治問題化した歴史は知ってますよ。正確にいうと、参拝そのものが問題視されるようになったのは、中曽根首相の公式参拝の10年前に三木首相が「私的参拝」論を唱えたあたりからですが。60年代の終わりから70年代半ばにかけては、靖国神社法案(いわゆる国家護持法案)でもめていましたので、もっと前から靖国問題は政治問題だったとも言えます。

    松田さんが「政治問題化」とおっしゃってるのはたぶん「外交問題化」という意味でしょう。
    もしそうだとして、外交問題化のきっかけをマスコミが与えた面は大いにあると思いますが、そのことと、もともと問題化し得る要素があったかどうかは別問題ですよね。
    保守派の多くは、そもそも問題化し得る要素がなかったと思ってるみたいですが、私は少なくとも潜在的にはあるはずだと思ったので、その理由を本文で説明してます。
    また、もう既に問題化してるわけですから、「このケンカを最初に煽ったのはマスコミだ」なんて指摘してもあまり意味はなくて、単純に、参拝を推進する側には「正義」があるのだということを説明し続ければいいんじゃないかと思います。

    • 武津
    • 2014年 1月 08日

    よく考察された論文だと思います。
    靖国神社の存在を、いままでにない視点から解剖し展開したことはすごく新鮮でした。
    国家という存在の二面性を論じることは、いまとても必要だと思いますね。

    十分読み込んでから、改めてコメントします。こうした文章はメディアやネットに拡散することを願います。

    • 正直屋
    • 2014年 1月 08日

     中野剛志さんのメールマガジンに導かれて、川端祐一朗さんの論考に触れることができました。はじめてコメントを書かせていただきます。
     私もかねてより、靖国神社の慰霊施設としての性格ばかりを伝えようとすることに対して、またおそらくそれと軌を一にしてのことでしょうが、場所柄をわきまえず「不戦の誓い」を立てようとすることに対して、つよい違和感を覚えてきました。それゆえ、川端さんの論考におおむね賛同することができました。とはいえ、賛同しかねるところもあると感じました。
     おっしゃるとおり、靖国神社はもとより諸国の戦没者追悼施設はいずれも、対外戦争の顕彰施設としての性格を帯びています。しかしだからといって、戦没者追悼のあり方が外交問題化するのは当然だといえるでしょうか。やや飛躍しすぎるのではないでしょうか。それどころかむしろ、川端さんの論考を読み進めるほどに、外国の戦没者追悼のあり方に干渉してはならない理由がそこに書かれているように思えました。
     いかなる国家も固有の権利として、国防力を保持することができます。国防力を過大に保持していれば非難されてしかるべきですが、国防力を保持していること自体は非難されるいわれはありません。そして諸国の戦没者追悼施設は、たんなる慰霊施設ではなく顕彰施設でもあればこそ、国防力の中核あるいは基底に位置するものです。
     櫻田淳氏が靖国神社を「兵士の士気」を支える「安全保障装置」と呼んだのも、それを言わんとしてのことでしょう。川端さんはさらに本質に迫った論証をされています。私なりに理解したところでは、戦没者追悼施設は、国家と国民が生命の保護と死の強要とを交換する、あるいは交換したことを確認する場であるがゆえに、われわれが国民国家を形成しようとする切実な動機と結びついています。
     とすればなおのこと、生命の保護と死の強要との交換関係の外に立つ者が、戦没者追悼のあり方に干渉するのは、その国家の存立の基盤を破壊することにつながりかねません。そして、国家の存立の基盤を破壊することを許しては、国家と国家の間にルールは成り立ちません。戦没者追悼のあり方を外交問題化しないことを、国際社会のルールとみなすべきだと考えるゆえんです。
     日本が諸外国に対して、自前の歴史認識を語り始めるのは、たしかに厳しい覚悟を要するでしょう。それにくらべれば、国際社会のルールに立ち還れと、あるいは国民国家を成り立たせているところの万国共通の仕組みを思い起こせと説くほうが、ずっとやさしいのではないでしょうか。
     長文にわたり失礼しました。

      • 川端
      • 2014年 1月 28日

      コメント有り難うございます。
      おっしゃることは非常によく分かります。私がいいたかったのは、より正確には、「外交問題につながり得るような、心情的・道義的・思想的なわだかまりをかならず内包する」ということです。
      それが明示的な「外交問題」に発展するかどうかは場合によると思いますが、そうはいっても、暗黙のわだかまりはあってもおかしくないだろうということです。殺し合いをしたわけですし、一応お互いがお互いの「正義」を掲げて戦ったわけですからね。

      本文ではごっちゃになっていたので、分けて考えます。

      1.殺し合った「旧敵どうし」のわだかまり
       殺し合いをしたわけですから、当然わだかまりはあります。
       「どっちもどっち」な喧嘩であったとしても、やはり自分のじいちゃんを殺した相手のことは憎いのが普通でしょう。

      2.「正義」をめぐるわだかまり
       本文の中で「そして、戦没者の慰霊や顕彰というような行為は、もともと「正義」をめぐる対立を生みやすい話題だと考えるべきなのです。」と書いたのは、お互いが「正義」を掲げて戦ったということが前提になっています。
       それで負けた結果何が起きたかというと、日本の正義が外交上「否定」されてしまったわけです。

       で、これらのわだかまりが、「対等な対立」であればお互いにもう面倒だからあまり干渉しあわないようにしようというのも成り立つと思いますが、大東亜戦争はそうではないのです。

      正直屋さんが、

      > 国際社会のルールに立ち還れと、あるいは国民国家を成り立たせているところの万国共通の仕組みを思い起こせと説くほうが、ずっとやさしい

      と書かれていますが、日本側は東京裁判で「平和に対する罪」で裁かれたわけで、これって要するに、国際社会のあるべきルールを破った輩ということになっているわけですよね。
      だから、旧連合国(及び、「被害者」であるというスタンスに決めてしまった旧植民地である韓国)の論理を簡単に言ってしまうと、「そりゃ、それぞれの国家には対等な権利があるということで良いと思うよ。でも日本は、そういう国際秩序を破ったのであって、だから俺たちは怒ってるんだ。日本軍国主義は人類共通の敵なんだから、そんなものの象徴である靖国神社に首相がお参りするなんてもってのほかだわ」っていう話です。「靖国神社は、お前らのルール違反の象徴なんだから、そんなところで慰霊することを認めることはできない」という理屈になるわけですね。

      もちろん、この東京裁判史観はほとんど言いがかりだと思いますが、その言いがかりの論理がいまだにけっこう根強く生きているのに、それに正面から反論せずに「あくまで戦没者の追悼です」「戦没者の追悼は各国の内政問題です」とか言っててもそれは無理があると思います。
      日本の戦争は、ヨーロッパ諸国同士の植民地競争のような、「どっちもどっち」の戦争とは認めてもらえていないのです。極論すれば、テロ国家とかならず者国家みたいに扱われているわけですよ(笑)
      原爆を落としたアメリカのほうが、よっぽどならず者だと思いますけどね。

      結論としては正直屋さんのおっしゃる論理が正しいと思うのですが、そういう正しい論理の枠内で捉えてもらえる状況にないのが現状なんじゃないでしょうか。そういう状況で靖国神社に参拝するというのは、最初から「論戦」を仕掛けているのに等しいと思うのですよ。靖国参拝は、「日本はテロ国家ではなかった。ふつうに自国の生存のために戦っただけで、お互い様だ。文句あるか?」っていう主張を、明確に伴う行為だと思うのです。

    • 柴犬
    • 2014年 1月 09日

    素晴らしい考察だと思います。

    私が思うのは、靖国問題とは、靖国参拝にこだわりながら(否定でも肯定でも)
    自分たちが置かれている状況を直視し難く、逃げている日本人の精神性を象徴した問題ではないか? と、考えてみました。

      • 川端
      • 2014年 1月 28日

      コメントありがとうございます。

    • 和田
    • 2014年 3月 25日

    基本的には、靖国神社は国内問題である。そして、天皇の名で死んでくれという施設である。憲法には政教分離原則が存在する。 それにもかかわらず、靖国神社に公的性格を与えようとするのは、立憲主義の否定であり、国家神道の強制を狙うものである。 私は、天皇の名では死ねない。日本を反近代の祭祀国家に逆戻りさせるのはおかしい。   祭祀とは特定の共同主観を込めた宗教的象徴行為である。 祭祀を公的な存在にするということは、直ちに共同主観の強制に繋がる。  アイヌの熊送り、殷・アズテクの他部族生贄、マヤ・インカの自己犠牲・自己生贄、自然神への奉納はいずれも多神教としての自然神に対する賄賂のバリェーションである。  歴史・伝統・文化から自分たちが正統と考える国家神道的イデオロギーを恣意的に抽出し、合法的統治の下敷きにある正当性・妥当性・有効性の観点から物事を判断せず、血統的・系譜的レジテマシー正統にこだわり、それらを自ら奉じない者を異教・異端と言論弾圧する。 靖国を公的存在にするということは国家がそのような方向を目指すということだ。 他国に干渉されるから靖国参拝に賛同するということは、自我を処刑し、天皇に自己犠牲をささげようという究極の自虐である。 

  1. 2014年 1月 08日

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