集団的自衛権と憲法改正(その2)

 前回、憲法についての自分の考えを述べると予告したのですが、その前に二つだけ言っておきたいことがあります。

 一つは、いま行われている安保法制化の国会審議などのように、日本の安全保障にかかわる議論が進むと、国民の一部から「自分たちが議論の中身についてよく知らされていないうちに、ことが決まってしまうのは問題だ」といった声が決まって出てくることについてです。これは、NHKラジオが好んで取り上げる「街の声」、番組中で読まれるファクスなどに必ずと言ってよいほど見受けられます。
 私は、こういうしたり顔の意見が出てくるたびに、怒りを覚えます。この怒りは、左翼的な反体制論者に向けられたものではありません(それはそれであるのですが)。むしろ「ノン・ポリティカル」を気取る一般大衆の中に、いかにも「主権者たる国民」という葵の印籠をタテにして、お上品ぶってその種のことをのたまう人が大勢いる事態に対してなのです。
 この人たちは、きわめて怠惰で、無責任で、他者依存性が強い人たちだと思います。やれやれ、これが日本人の平均的な民度か、とうんざりするわけです。なぜなら、これだけ広く情報が公開されている民主主義国・日本で、もし国会で審議されている事項について多少とも本気で関心を持つなら、その審議内容がどういうものか、いくらでも自分で調べることができるからです。テレビでは毎日のように国会審議が放映されているし、ニュースや特番のたぐいで問題の要点もわかりやすく整理されて解説されるし、新聞やネット記事をちょっと丁寧にたどれば、何が問題とされているかはたちどころに知ることができます。また政府機関・各省庁や政党も、広報のためのホームページを用意して、審議事項や主張をそのつど掲載しています。そういうあまたある情報に何も触れずに、「知らされていない」はないでしょう。
 この種の発言をする人たちを、仮に「政治的一般大衆」と呼んでおきましょう。政治的一般大衆は、自分が「見ざる・聞かざる」を決め込んでいるくせに、その「大衆」としての特権的地位に胡坐をかき、「知らされていないうちに」といった、甘ったれた発言をしているのです。自分で理解しようとする気がないか、理解力がないことを棚に上げて、判断できないことの言い訳にこの決まり文句を用いるのですね。大衆民主主義時代の「伝家の宝刀」を悪用しているとしか言いようがありません。
 誤解のないように断っておきますが、私は、国民ならだれもが国政に真剣な関心を持つべきだとか、安保問題について意見・主張を持たなくてはならない、などと言っているのではありません。国政に関心・意見・主張を持つ持たないは、それこそ個々の国民の勝手しだい、「私は政治には興味ありません」とか「忙しいんで新聞なんか見てる暇ないよ」とか「きちんと考えるのは政治家や専門家の責任だろ」という態度は、それはそれで一つの立派な態度です。大部分の庶民が事実そうであるし、それで一向にかまわないと私は思っています。
 問題は、自分から調べようともしないくせに、政治問題について「知らされていない」といったたぐいの不平をわざわざもらして、その責任をみんな「お上」になすりつけるような、余計なこと、間違ったことをする連中です。ですから私は、そうした連中をただ「一般国民」とか「一般大衆」とか呼ばずに、あえて「政治的」一般大衆と呼んで区別しているのです。賢い庶民は、そんなことをけっして言わないものです。
 この種の言い分は、それだけで大きな「ムードとしての反権力的世論」を形成し、現に反日的マスコミや左翼政党・知識人が思う存分利用しています。政府は言うべきことを言わずに隠してことを進め、いつの間にか勝手に決めてしまう。これこそは民主主義の危機だ――こういうイメージ操作によるデマゴギーは、ずっと昔から行われてきました(例:60年安保の時の反対運動)。「知らせない政府はけしからん」と主張する「ノンポリ」政治大衆は、むしろ自分たちがそのような勢力の温床になっていることを知らないのです。そういう人たちには、「国民主権」などを振りかざす資格はないと言えましょう。

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西部邁

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コメント

    • 岡部凜太郎
    • 2015年 6月 26日

    小浜先生、記事拝読しました。
    オルテガが「大衆の叛逆」を書いて70年余り経ちますが、最早、大衆の簒奪とさえ、言える現下の状況は甚だ私としても不愉快に感じてしまいます。生まれた時から主権者という地位を得られる時代ですから、それも当然の帰結とも言えるかも知れませんが、俺様民主主義とも言える日本でどのようにして国体を護持するか、これは我々に課せられた極めて重大な義務とすら言えるでしょう。

    憲法学についても我が国では終戦直後までは佐々木惣一博士や美濃部達吉博士など、国体としての憲法を基礎において憲法論議を進めていた憲法学者の方もおられましたが、今では国体、シラス、ウシハクという帝国憲法の思想は見る影もありません。その代わり「人権」「平等」そんな言葉が念仏の如く唱えられる憲法学という学問の現状には違和感を感じざるを得ません。幸い、圧倒的少数派とはいえ、国体という意識を明確に持った学者の方がおられるので、そのような方が増えることを願って止みません。

  1. 岡部凛太郎さん。

    さっそくのコメント、ありがとうございます。おっしゃる通りと思います。

    日本のこれからの憲法問題を根本から考えるにあたっては、少なくとも、次の3点を何とかしないといけないと愚考しております。

    ①すでに岡部さんご指摘のとおり、「国民主権」という西欧由来の概念を自明のものとせずに、日本の国柄に合った憲法の精神を打ち出す。

    ②現憲法の「改正」という観念にとらわれず、むしろ帝国憲法の優れた点を受け継ぎ、発展させる。

    ③憲法とは国家権力の拡大を抑えるための国家への命令であるという、いわゆる「立憲主義」を憲法の本質と考える通り相場の考え方(宮台慎司など、日本製リベラルが得意げに吹きまわってきました)を根底から見直す。

    最後の点については、こういう考え方を「立憲主義」と呼ぶのは、そもそも語法としておかしいですね。戦後民主主義イデオローグが、この言葉の正当な概念を捻じ曲げて、自分たちに都合のよい中身を注ぎ込んだ結果だろうと思います。こういう操作を行っておくと、現憲法に少しでも異を唱える者に対して、「お前は立憲主義を否定するのか!」といった恫喝が大きく効いてしまうわけです。

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