※この記事は月刊WiLL 2015年6月号に掲載されています。他の記事も読むにはコチラ
悲惨だったおじさんたち
「いまは週に二日、仕事があるかないか。しょうもない事務作業か、最近は太陽光もやり始めたけど、どうにもならんね」
一昨年、私の故郷・佐賀県唐津市の居酒屋で、小学校以来の友人が私に寂しく打ち明けた。
友人は地元の工業高校を卒業後、九州電力・玄海原子力発電所で原子炉の保守管理を行う小さな会社で働いていた。福島第一原発の事故の影響により玄海原発はいまなお操業を停止しているが、これにより多くの人が仕事を失ったり、収入減を受け入れざるを得なくなったりしたというのだ。
友人の所属する会社は、九電子会社の下請けのそのまた協力会社という、吹けば飛ぶような規模の零細企業である。原発がストップし、真っ先に仕事を奪われたのは彼らであった。
玄海原発の総労働者数は二〇一一年時点で四千二百六十五人、そのうち九電社員は五百三十五人(二〇一三年四月十七日、西日本新聞)。原子炉の定期検査などの期間にはさらに多くの労働者が集まるため、五千人に近い労働者が玄海原発に存在したと思われる。
その約五千人の労働者たちは原発停止後、下から順に仕事を減らされたり、切られたりして、生活は行き詰まっていった。友人もそのうちの一人というわけだが、自分はまだマシなほうだ、と自嘲気味に語る。
「悲惨だったのは五十代、六十代のおじさんたち。リストラ組や、早期退職を強いられた人も結構いて、原発内の清掃やガードマンなんかの仕事をしよった。おじさんたちはスパッと切られたね。孫請け、曾孫請けみたいな会社に属し、非正規で働きよる人がほとんど。収入がいきなりゼロになって、路頭に迷った人はかなりおったはず」
玄海原発のある佐賀県北部は、全国的に見ても過疎化のスピードが速く、農業や水産業以外の主要産業はない。私の同級生たちの多くも進学や就職、結婚をして故郷をあとにしているが、地元に残った知人には、原発関連企業で働いている者も多かった。僻地居住者、リストラ組などの中高年層といった人々の受け皿としても、原発が立派に機能していたのは事実である。
もちろん、直接原発で働いている人々以外にとっても、原発がもたらす恩恵は何物にも代え難い「生活の糧」そのものであったことは容易に理解できるだろう。原発内に飲食物を納入する業者やタクシー会社、作業員向けの旅館や民宿の経営者など、まさに「原発ありき」で事業を営んできた方々にとって、原発停止は「死刑宣告」だったに違いない。
救済されるのは福島だけ
さらには、玄海原発から近い佐賀県唐津市の繁華街でも、原発停止後は街から活気が失われたと嘆く商店主の声が多く聞かれた。唐津市木綿町で数十年間、バーを経営するママは次のように漏らした。
「原発避難民はたしかに気の毒だけどね、原発のお客さんは減ったし、ウチらの売り上げもガクッと減った。避難民の人たちは義援金やら補償金が出よるわけよね? 私たちもある意味、被害者やけん、いくらか貰えんもんかね?」
冗談なのか本気なのかわからないママの一言だが、私の心には偽らざる本音として突き刺さった気がした。
僻地居住者、中高年のリストラ組などを一括して「弱者」などとはいいたくないが、事実として社会的に弱い立場の人々が原発のおかげで生きていた。しかしながら、弱者としてクローズアップされるのは福島の原発避難民だけであり、救済されるのも彼らだけだ。
原発事故の影響で故郷を追い出された人々は、福島県内だけでも約十五万にのぼるというが、その一方で原発の停止に伴い、生活が困窮したり立ち行かなくなったりした人々はどれくらいいるだろうか。
どちらがより気の毒かなどと両者を比較するわけではないが、やはりどちらも救済されるべき「弱者」であることは間違いないはずだ。にもかかわらず、後者は目を向けられることはほとんどない。
地元に原発があり、原発で働く知人が多い私だからこそ、そう感じてしまうのかもしれないが、そこにはたしかに矛盾が存在するのだと思えて仕方がなかった。
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