避難民の「変化」
震災後、私は福島を四回訪れた。二〇一一年の春、津波で甚大な被害を受けたいわき市久之浜から、国道三九九号を使って立ち入り禁止区域の円周上を南相馬市原町区まで北上したのが初めてで、他の三回は二〇一一年から二〇一三年にかけて、いわき市の内陸部や郡山市、福島市が行き先であった。
この四回の間に、福島の人々の心情の変化を僅かながらでも知り得たことが、今回、私が執筆するにあたっての一番大きな動機になったともいえる。
最初の訪問では「復興」とは程遠いような被災地の現状を垣間見、立ち入り禁止区域のすぐ側で普通に生活する子供やお年寄りの姿に驚愕した。特に原発避難民の多くは、突如日常を奪われたショックから立ち直れないという人々がほとんどで、話を聞けば泣かれたり怒られたりすることもままあった。
原発事故の影響が比較的少なかった地域の福島県民も、原発避難民には同情的であり、県民が一丸となって復興していこうというような連帯感を大いに感じたのである。
「変化」をうっすら感じたのは、最初の訪問から半年が過ぎた二〇一一年の暮れ頃だった。いわき市中心部に住む知人が、原発避難民に対する不平不満を述べ始めたのである。
「避難民は未だに働いていない。俺たちだって仕事が減ったり、復興で大変な思いをしているのに、見舞金や補償金で暮らしている避難民を見ると、はっきりいって気分が悪い。俺の月給より高い補償金を貰ってる奴がゾロゾロいる」
場所がいわき市のスナックであったため、近くに原発避難民がいたら大変だからやめろと静止したが、酒も入っていたせいか、最初は小声だった知人もどんどんと声が大きくなっていく。すると、隣席にいた初老の男性が、知人の発言を補足するように会話に入ってきたのだ。
「原発のある地域は、原発があるから大丈夫だと思う怠け者が多い。同じ福島でも、俺たちの所(いわき市)は原発のカネなんか少しも入ってこないから、漁業やったり農業やったり頑張るわけだ。事実、未だ働いてない原発避難民はいる。国は甘やかし過ぎじゃないか」
「原発があるから」
「原発があるから」という言葉に皮肉や嫉妬といった様々な感情が込められていることを、私も実体験により感じていた。
前述の玄海原発が立地する佐賀県東松浦郡玄海町は、地元の人々からは「原発だけの町」といわれることもあるくらい、これといった産業のない人口六千人の町である。市街地からも離れているため「陸の孤島」などと揶揄する人もいるが、町内のあちこちに、田舎には似つかわしくない大理石造りの立派な町役場や、大きな体育館などが建てられている。
また、平成の大合併によって玄海町を除く東松浦郡の町村全てが唐津市と合併しているにもかかわらず、原発立地交付金などによる豊かな財政のおかげで唯一の郡部として存在するのが玄海町なのだ。
「原発があるから」というのは、私の周りではごくごく普通にいわれていた玄海町に対するイメージで、時に皮肉であり、また時に嫉妬の感情から生みだされたものであったのだ。
仮に原発廃止が決定され、玄海町から原発がなくなるとすれば、玄海町は唐津市へ合併されるだろう。そのことについて不快に思う市民も少なくない。
「言い方は悪いけど、原発におんぶに抱っこでやってきたほうが悪い」
しかし、玄海原発の停止により生活が困窮した友人に対して、同様の思いをとても抱くことはできない。原発を巡り、国民の間で様々な感情が入り交じり、そして変化している様を目の当たりにし、暗澹たる思いだった。
そしてこの変化は、迷走する民主党・菅政権(当時)の下で混乱に揉まれながら、さらに肥大化したのであった。
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