脱原発派のエゴ
「原発は悪」の理論で、原発従事者はそもそも救済される対象ではないのか。原発避難民の惨状の上辺の部分だけをあげつらい、原発の即時廃止をなりふり構わず訴えたり、再稼働を頑なに拒む人々がいる。
彼らが連れてくる弱者は、往々にして絶望した表情で悲壮感たっぷりに、生活を返せ、地元を返せと叫ぶが、その一方で、避難民として悠々自適に暮らす人々が存在するにもかかわらず、そこを糾弾しないどころか無視する。弱者だから許されるのか、それとも不都合だから取り上げないのか。
事実、彼らは原発が止まることで生活の歯車が狂った人々には目を向けない。やはり、自らの都合によって弱者を「選別」しているとしか思えないのである。
「命を守るために原発をとめろ」「原発で国民を殺すな」というのも彼らが使うお馴染みのフレーズだが、いつまで経っても「原発に殺された国民」が出てこないのはなぜか。そこを問うと、「マスコミが報道しない」「隠蔽されている」などと返ってくるのだから話にならない。
原発が止まり、生活が困窮しても、これは命の危険ではないのだろう。カネよりも命よりも「主張」や「政治」が大切ということなのか。
そもそも、原発の停止によって日本国民全体が大きすぎるツケを払っている現状が、あまりに軽視され過ぎているのではないか。原発避難民も気の毒だし、原発が止まり、生活が苦しくなった人々も哀れだが、私たち自身も将来を担保に、多大な被害を被っている。
「老人のエゴ」、細川と小泉
「都知事選、脱原発が争点に」
二〇一四年一月十五日、朝日新聞は来る都知事選に立候補を表明した細川護煕元首相を紹介する記事に、このようなキャッチをつけた。小泉純一郎元首相とタッグを組み、あらゆる場所で「脱原発」「再稼働反対」を訴えていた二人の姿は記憶に新しいが、私にとってこの二人の発言は「老人のエゴ」にしか見えなかった。
「原発がなくても電気は足りている」などという主張をゲンナリして聞いていると、今度は「脱成長」とまで言い出し、私の腸は煮えくり返るようだった。カネは腐るほどあり、あとは死ぬだけという二人の老人が「脱成長」などとは身勝手極まりない。
原発が止まったことで火力発電に頼らざるを得なくなったわが国では、いまも一日に百億円の化石燃料代を支払っている。社会保障経済研究所代表・石川和男氏がダイヤモンドオンライン(二〇一四年十一月十日)に寄せた記事によれば、二〇一一年度から一四年度までの試算だけでも、その総額は十二兆円超。
石油、ガスといった化石燃料は当然海外から購入するため、この十二兆円は海外にダダ漏れといった状況であるのだ。
さらには、この十二兆円という金額は、消費税五%分に相当するとも説明している。消費増税三%に対しては「消費者圧迫」などと鬼の首を取ったように糾弾するのに、この十二兆円についてはほとんど誰も何も言わないのだ。
私が一番頭にくるのは、「脱成長」という馬鹿げた主張である。「改革なくして成長なし」と勇ましかったのはどこの誰だったのか。「改革ごっこ」の挙げ句に国民を疲弊させただけの御仁らしい戯言だが、たしかに脱原発、再稼働反対のスタンスを続ければ、自ずと「脱成長」の目論見は達成される。
都知事選に落選した細川氏は、いまでは都知事選などなかったことのように再び隠居生活に入られたのだろう。急に出てきて世論をかき混ぜて何がしたかったのか、皆目見当がつかない。
現実的な「再稼働」
最後に、私のスタンスは「原発廃止に向けて、安全の確認できた原発をできるだけ早めに動かす」である。
私的な話だが、実は個人的には「原子力」に対する抵抗がある。それは、私自身が長崎への原爆投下がなければ産まれていなかった、という出自に起因するものだ。
さらにいえば、福島の原発事故後、私の住む南関東でも放射能に大きなストレスを感じている人々が多く、私もそのうちの一人だった。
ただし、当時「わからなかった」被害や影響が「わかる」ようになったいまでも、青筋を立てて原発への恐怖を叫ぶ者ではない。事故を教訓に、できるだけ安全かつ安定したエネルギー源として、原発を速やかに動かすべきだと思っている。
一日百億の国富の流出を早期に堰止め、現実的な再生可能エネルギーの研究開発や、社会補償費に回すなど、未来への資本としてほしい。
震災の混乱と、無能と動揺、詭弁とその場しのぎの赴くままに決定された「原発停止」の現状は、わが国の富と将来を日々削り取っているように思えてならない。
エネルギー供給において、原発が至高だというわけではない。現実を直視した時、原発を動かすという選択肢こそが前向きであり、実現可能な唯一の手段である。
この記事は月刊WiLL 2015年6月号に掲載されています。他の記事も読むにはコチラ
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