『シン・ゴジラ』は『ゴジラ対フェミニスト』である。

『シン・ゴジラ』は『シン・レッドマン』である。

■はじめに■
本稿では『シン・ゴジラ』について多少のネタバレが存在します。決定的なものはないかと思いますが、未見の方は一応、そこをご了承いただきたく存じます。

『シン・ゴジラ』が公開4日間で興収10億円を超える大ヒット作として、話題になっています。庵野秀明総監督、樋口真嗣監督という日本の誇るコンビによる作品ともなればそれは必然とも言えましょう。
 もっとも、本作については既に小山晃弘さんによって精緻な評論がなされています。が、敢えてぼくなりの切り口で批評するならば、本作は「男性原理に満ちた作品である」ということになるでしょうか。これは「ホモソーシャルな作品」とも言い換えられましょうし、それを更にキャッチーに言い換えると、上のように『レッドマン』である、となるのですが、これに関してはまず、『レッドマン』の説明が面倒なのでひとまず置いて……。

 本作は「現実対虚構。」に「ニッポン対ゴジラ」とルビを振ったキャッチコピーが付され、そこからも推察されるとおり、リアルな世界観の下に「ゴジラ」という虚構を放り込み、政府や自衛隊がどう対応するかをシミュレーションした作品となりました。登場人物は政府関係者に絞られ、人間ドラマはほぼ、廃されていたと言っていい作品だったのです。
『EX大衆』8月号のインタビュー記事によると、庵野監督は周囲から「離婚の危機に陥った夫婦とか、娘を失った父親の悲しみとかいったいわゆる“ドラマ”」をつけ足せと言われつつ、それを突っぱねたそうで、このエピソードにはつい、ある種の爽快感を覚えてしまいます。
 また一方、岡田斗司夫さんは今回の映画を庵野監督の演出の勝利、と指摘していました*1。

 邦画には“ダメ演技の壁”というのがあって、俳優さんが張りきるほど、映画がダメになっちゃうんです。

 今回のシン・ゴジラは、登場人物はほぼ全員、政治家か官僚なんです。
 なので全員、早口で熟語ばっかり しゃべる。

 すると、全員の演技のレベルは下手なんですけども、みんな上手く見えるんですね。

 つまり早口でしゃべらせることで演技の入る余地をなくして、そこにリアリティを与えた、役者を演出側でコントロールしたことが勝因である、といったようなことでしょうか。
 従来の映画でお約束とされていた演技プラン、エモーショナルなドラマ性を徹底的に削ぎ落としてシミュレーションに徹した、言ってみれば「徹底的にリアルな怪獣ごっこ」こそが本作の本質でした。

 そう、それはつまり、「徹底的にリアルな『レッドマン』」。本作は『シン・レッドマン』だったのです。
 さて、ここで『レッドマン』についてごく簡単に紹介しておきますと、円谷プロによる特撮怪獣ドラマなのですが、1972年という怪獣ブームのまっただ中で、『おはようこどもショー』という子ども向けバラエティ番組の中の箱番組として放映された、5分間に満たないミニ番組だったのです。
 ブームの徒花とも言うべき低予算番組で、要は「円谷プロの倉庫に転がっていたボロボロの怪獣の着ぐるみを引っ張り出し、その辺の野っ原で格闘させただけ」の何ともユルい作り。まさに「怪獣ごっこ」です。脚本など書かれていなかったといいますし、またウルトラマンであれば光線で怪獣をやっつけるところを、合成のおカネもなく、ナイフや槍で怪獣を刺殺しまくる姿は、今の目では随分と物騒なヒーローに見えてしまいます。
 そんなわけでこの『レッドマン』は長らく、ネット上で一種のキワモノとして話題になっていたのですが、今年より円谷プロ公式YouTube「ウルトラチャンネル」で配信が始まり、一大ブームが巻き起こりました。(まだ何も悪いことをしていない)怪獣を問答無用で刺殺する姿がシュールなギャグに見えてしまい、レッドマンは「赤い通り魔」として恐れられているのです。
 むろん、低予算と時間の短さがこのキッチュさを生んでいるわけなのですが、これは同時にそうした制約が、当時の価値観をディフォルメした形で炙り出してしまっている、という面もあるわけです。つまり、冷戦下では「正義」と「悪」が比較的明確に分かれ、敵を倒すことが正義として受け入れられやすかったのに対し、それが今の時代ではギャグに見えてしまう、ということでもあるわけですね*2。
 しかしこれは、もっと大きくざっくりと、男性原理型のドラマツルギーが今から見るとギャグになってしまう、ということでもあります。80年代に青春ドラマの熱血や『仮面ライダー』の正義が徹底的に嘲笑され続けたことを思い起こせば、それは理解できましょう。
 しかし時代を経て、2001年に制作された『ウルトラマンコスモス』では、「怪獣保護」がテーマに選ばれました。「異物を排除するのではなく、共生することこそが素晴らしいのだ」との価値観が普遍化したがための現象です。
 そこへ『シン・ゴジラ』は恋愛ドラマなどを廃した、「男性原理」による物語を丁寧に作り上げ、評価されたのです。そう、まさに「男性原理」の復権。『シン・ゴジラ』は『シン・レッドマン』だったのです。

*1 岡田斗司夫のニコ生では言えない話 岡田斗司夫の毎日ブロマガ「ネタバレなし!『シン・ゴジラ』を必ず見なければいけない五つの理由・二つ目」(http://ch.nicovideo.jp/ex/blomaga/ar1079641
*2 ここで『チャージマン研』を想起した方も多いでしょう。これもまた70年代に作られた低予算ミニ番組であり、そのキッチュさがトンデモなタカ派ヒーローを生み出してしまった、そしてそれが現在ではギャグとして受容されている例です。

→ 次ページ「『シン・ゴジラ』は『ゴジラ対透明人間』である。」を読む

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西部邁

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