『シン・ゴジラ』は『ゴジラ対フェミニスト』である。
- 2016/8/17
- 文化, 社会
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こうして見ると、杉田氏の憤りの実態が見えてきます。
「頑張ってPCに則り、女性を出したつもりだろうが、その出し方は極めてホモソーシャルであり、適切ではないぞ」というのが彼の言い分なのです。
「女性ジェンダー」を発揮させれば「漫画」になってしまう。
「女性ジェンダー」を封じると一応、リアルにはなるが、そこで直ちに男性に受け入れられるわけではないので、「透明人間」になってしまう。
本作は「ゴジラ対透明人間」であったのです。
「どっちにしろ女性が仲間外れになっていることには変わりない、さあ、どうしてくれる、謝れ」とでも、杉田氏は言いたげです。
しかし、それに対しては「そんなのしょうがない」という答え以外、ない気がします。
これは映画の作り手たちからの「ジェンダーフリー論者」に対する、問いかけでした。
そこからは「何でもかんでも男女共生がいいというものでもないのでは?」「石原さとみのような女性ジェンダーの発揮の仕方ができるのは、漫画の中だけのことでは?」「逆に市川実日子のようなジェンダーレスな状態がお好みか?」とでもいった声が、聞こえてくるかのようです。
(いえ、「ジェンダーフリー的価値観」のムチャ振りに対応するうち、このようなものができ上がってしまった、というのが順番でしょうが)
ここには、女性にまつわる「夢と現実」があまりにもストレートに画面に出てしまっています。
本作は「現実対虚構」、即ち「リアル対漫画」だったのです。
上に紹介したまとめでは杉田氏を「いかにも旧態依然とした、悲鳴を上げるだけのヒロイン的女性」を求めている「女性差別主義者」として断罪しているコメントが並びましたが、それは全く違います。杉田氏は誰よりもフェミニストの価値観を内面化していました。彼の声は、石原さとみと市川実日子の間で揺れているフェミニストが、彼の舌を借りて叫んだものであったのです。
ここで福島瑞穂氏が(自分はセクハラの疑われる鳥越俊太郎氏を支持しておきながら)小池百合子氏を「女装してても中身がタカ派の男性」と評した件を思い起こしていいかも知れません。
ぼくたちは杉田氏を「旧態依然とした女性差別主義者」ではなく「ムチャ振りばかりするフェミニスト」として批判しなければならないのです。
実は本作にはもう一人、印象的な女性が登場します。ホンの一瞬の出番ながら、職員たちに食事を配る食堂のおばちゃん役で、片桐はいりが出演していたのです。先に石原さとみを女性ジェンダーの体現者と形容しましたが、とは言え彼女はキャリアウーマンであり、「女性の性役割を果たした」という意味でなら、実のところ本作で唯一、女性ジェンダーを発揮していたのは彼女であった、とも言えます。その意味では、まさに彼女は本作の唯一のヒロインでした。
しかしフェミニストが片桐はいりをこそ評価するかとなると、それはみなさんご承知の通り。
本作は実は「ゴジラ対フェミニスト」でした。
「ゴジラはやっつけられるけどフェミニストたちのダブルスタンダードをやっつける術はないよ」というのが本作のテーマであり、実のところ杉田さんはまさにそこを的確に見切っていたのです。
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