「幸福」と「格差」の繋がりは深い

 モノがある。便利なモノがあふれている。
 そのことは、幸福とどう結びつくのでしょうか?

団塊世代との会話

 いわゆる団塊の世代の人と話すとき、世代間の差について話が及ぶことがあります。そのとき、今は昔に比べてモノがあふれているから幸せだといった意見を聞くことがあります。
 うがった見方をするのなら、彼らがこう言っているように感じられてしまうのです。自分たちが若いときはモノがなかった、それに比べてお前らはモノがあふれた時代に生きていて幸せじゃないか、文句を言ってるんじゃない。そう言われているような気がしてしまうのです。
 そんなような言葉を聞くとき、私は少なくない反感を覚えてしまいます。モノがあれば幸せなのかと、そんな簡単な問題ではないのではないかと考えてしまうからです。
 もちろん、モノの無さが餓死の可能性が高いようなレベルであるなら、食べ物が充分にあるということは幸福だと言えるでしょう。しかし、単純にいろいろな便利なモノが在るということだけでは、そう簡単には幸福だと言い張ることはできないように思われるのです。

ポリス的動物

 アリストテレスは『政治学(ポリティカー)』で、人間をポリス的動物(zoon politikon)だと定義しました。ポリスはある種の共同体であり、日本語では「国」や「国家」、あるいは「都市国家」や「市邦」と訳されています。

国家が(まったくの人為ではなくて)自然にもとづく存在の一つであることは明らかである。また人間がその自然の本性において国家をもつ(ポリス的)動物であることも明らかである。

世界の名著08 アリストテレス』より

 人間がポリス的動物であるという見解に一理あるのなら、人間の幸福も共同体というものを含めて考えなければ充分とは言えないでしょう。つまり人間の幸福は、単にモノが在るとか無いとかいった単純な話ではなく、共同体の成員の立場として考える必要があると言いたいのです。

優越願望と対等願望

 フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』は、自由と民主主義を特権的に擁護している点から致命的に間違っていると思われます。しかし、その中で示されている優越願望と対等願望という用語は、共同体における人間を考える上で有益な概念だと思われます。

自分の優越性を認めさせようとする欲望を、私は古典ギリシア語から語源を借りて「優越願望」(megalothymia、メガロサミア)と新たに命名したい。自分の権威を認めさせるために隣国を侵略し人民を隷属させる暴君にも、ベートーベン解釈にかけては当世の第一人者を自任するコンサートピアニストにも、この「優越願望」が見てとれる。一方、「対等願望」(isothymia、アイソサミア)はその反意語であり、他人と対等なものとして認められたいという欲望を意味する。

 いささか単純化しすぎている点は否めませんが、この二つの願望概念に基づいて考えてみましょう。この概念から人間は、他者から優越していると感じられるときに幸福を感じるでしょうし、他者と対等だと感じられるときにも幸福を感じるだろうと考えられます。そのとき、その願望の種類によって幸福を感じる度合いから、次の4タイプの人間を想定することができます。

 優越願望対等願望
タイプA(標準)幸福を感じる幸福を感じる
タイプB(自由主義的)幸福を感じる幸福をあまり感じない
タイプC(平等主義的)幸福をあまり感じない幸福を感じる
タイプD(虚無主義的)幸福をあまり感じない幸福をあまり感じない

 これはかなり簡略化したタイプ分けですし、幸福を感じる程度性についても細かい検討が必要でしょう。しかし、まずは簡略化したこのタイプを基に考えていきます。
 このタイプを参考にして考えると、他者より劣っている場合は、人間は幸福を感じられない(だろう)という結論が導かれます。そして、それは絶対とはもちろん言えませんが、かなり当たっている推測なのだと思われます。そのため問題は、その共同体における格差の程度だと考えることができます。

共同体における格差

 例えば、携帯電話が無い時代や、一部の特権的な人だけが使っているような時代なら、携帯電話を持っていないことは不幸だとは感じられないでしょう。しかし、今の時代で携帯電話を持てないのなら、それを不幸と感じてしまうのは自然なことでしょう。ですから、みんなとの違いによって、幸福や不幸といった感情が決まってしまうように思われるのです。仮にみんなが貧乏ならば、貧乏そのものはあまり苦にならないとすら思われるのです。つまり、単純に便利なモノが世の中にあふれているといったことだけでは、そこにいる人間が幸福だとは言えないということです。
 結論を言ってしまいましょう。幸福はモノの豊富さや便利さにも関わりますが、それよりも共同体における格差により深く関わっている可能性があるのです。もちろん、格差を完全に無くすということは無理ですし、きわめて危険な考えです。ですから格差があるということを認めた上で、共同体における中間層の厚さを守ることが重要になってくるのです。
 具体的に、現在の日本の問題として考えていく必要があります。中間層の厚さは充分でしょうか? 格差は広がっていないでしょうか? 世代間で不条理がありはしないでしょうか?
 問題解決のために、何が弊害になっているのでしょうか? 問題解決のための議論は可能でしょうか? 誰となら議論が可能で、誰とは無理なのでしょうか? その見極めが必要な時期に来ているのかもしれません。
 事態は厳しい状況なのだと思われます。なるようにしかならないと考え、個人的な幸福感に先を見出すというやり方も考えられます。それとは別に、何が問題で、どうすれば良いのかを考えることもできるはずです。前者の途を進む人もいるでしょう。後者へ向け議論をする人もいるでしょう。できれば、議論可能な人がいるであろうことを。

西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
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