栄光の明石工作
相手にされない日本
明治33年(1900)第二次露清密約により満洲がロシアの勢力圏となり、日本の目の前まで迫ろうとしてきました。日本の選択肢は2つです。和平か戦争です。
この時、元老筆頭の伊藤博文を中心に日露協商が図られ、ロシアの朝鮮半島への南下を防ごうとします。いわゆる満韓交換論です。満洲はロシアのもの、韓国は日本のものという意味です。しかし、大国のロシアが小国日本のいうことなど聞くはずがありません。
そんな中、ロシアのウィッテ蔵相のみが伊藤の話を聞いてくれました。一般的に和平派といわれるウィッテですが、日本との友好関係を望んでいたかというと、そうではありません。ウィッテとしては日本と戦争をするには準備不足という認識だったのです。満洲は何も開発をされておらず、極東の戦力を支えるための工業力がなく、その状態ではまだ十分な輸送能力がないシベリア鉄道では兵站を圧迫してしまう、加えて満洲にいるロシアの兵力が日本に比べて少ないということです。
よって無理に日本と事を構えなくても満洲の工業力と兵力を増強していくだけで戦わずして日本を圧倒できるという考えだったと推察されます。つまりは時間稼ぎのために日露協商に乗ったと考えられます。
小国が仕掛けた逆転の秘策
しかし、日本は大国を前にして無力ではありませんでした。早いうちからロシアとの対決に備えて準備を進めていたのです。
例えば、明治20年(1887)には参謀本部の福島安正をドイツ公使館附武官として派遣し、ロシアと欧州諸国との利権がぶつかる東欧やロシア、オーストリア、トルコの利権争いの中心地バルカン半島の情勢を調査させていました。つまり、ロシアが西方で揉め事を抱えているうちは東方の日本にその矛先が向かうことはないが、西方の問題が解決するとロシアが日本に向かってくるということです。
福島は明石元二郎の先輩にあたる人物で、日本のインテリジェンスの父・川上操六から特に目をかけられ、参謀本部のエースと目されていた人物です。こういったエース級の人材を情報収集のために外国に派遣して、慎重に日本の取るべき指針を模索していました。
また、明治25年(1892)の福島によるシベリア単騎横断が挙げられます。これはベルリンからウラジオストク(満洲の詳細な調査も行われている)までを単独で走破するというものです。言わずもがなロシアとその周辺国の情勢を調査するためのものなのです。
余談ですが本来は秘密裏に行うべき活動にも関わらず、間抜けなことに当初は新聞に旅行の様子が連載されていました。流石にマズイと気付いた軍によって新聞の連載は取りやめにはなりましたが、それらのこともあり戦前の日本では福島の冒険譚として広く知られた話でした。
福島がロシア周辺国の調査を行う中でロシアに領土を分割され占領されていたポーランドの反ロシア活動家と関係を構築出来たといわれており、これらの人脈を明石が活かしていくことになります。
更に明治31年(1898)に田中義一(のち首相)をロシア公使館附武官として派遣し、ロシア国内の情報収集と不平党(革命家)との人脈作りをしていきました。田中の伝記『田中義一伝』によれば「ロシアで軍人を辞めて革命家をやっても良いと思った」という入れ込みようだったようで、上流階級のサロンから下流階級の酒場、果てはロシア軍の中へとあらゆるところに出入りをして人脈を作っていきます。詳細は不明ですが、おそらくは田中が作り上げた人脈や情報も明石に引き継がれたものと思われます。
また、ロシア国内以外にも周辺国に対しても工作を行っていきます。清国や韓国の宮中に対して日露が武力衝突になった際に中立してもらうよう工作を行ったり(韓国とは日露戦争の後に日韓議定書という同盟が結ばれます)、満洲の馬賊を懐柔したりしています。
これらが功を奏して日露戦争中、清国も韓国も中立を保ったために、日本はロシアと一騎打ちをすることができました。また、シベリア単騎横断を行った福島は日露戦争では満洲の馬賊を率いてロシア軍の後方撹乱を行ったりしています。
そして、最後の仕上げは日英同盟です。日本は日清戦争と北清事変で国際法を遵法することで日本が文明国であること示します。その上で、軍事的に弱小ではないことを世界最強の覇権国の大英帝国(以後、イギリス)に認識させました。
また、日清戦争後にロシアが満洲に進出することを良しとしないイギリスがドイツと組んで揚子江協定を結び、後に日本が参加しました。ところが、日本が参加した段階でドイツが協定から事実上の離脱をしたことで日英がロシアと対峙することになりました。この揚子江協定が日英同盟へのステップとなりました。
そして、イギリスの外交方針である光輝ある栄光を捨てさせ、明治35年1月30日に日英同盟が締結されました(公表は2月11日)。日本は世界最強の国を味方につけたのです。イギリスは日本のためにロシア海軍への妨害活動を行ってくれる他、国際通信の殆どを外国に依存している日本に対して全世界的なイギリスの通信網の利用と情報提供という多大な恩恵を受けることになりました。
準備は全て整いました。日英同盟が結ばれたこの年の8月15日、フランス公使館附武官であった明石に辞令が下ります。ロシア公使館附武官として首都サンクトペテルブルクへゆけと。明石元二郎、38歳のことでした。
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